1905年芸予地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 21:56 UTC 版)
震源地付近(安芸郡、呉市) 1924年(芸予地震から約20年後)の呉市都市計画図。このように呉鎮関連施設は沿岸部に造られたため、地震当時かなり被害があったと考えられている。 1930年頃(芸予地震から約25年後)の広島市地図。右下に宇品港、その宇品へ向かう鉄道が国鉄宇品線、中央下に刑務所(広島監獄)がある。 震災予防調査会報告では住宅被害は広島市より少なく、道路・水道(当時は軍用の呉鎮水道のみ)などインフラストラクチャーの被害は極めて少なかった、と記載されている。 呉鎮関連施設にいくつか現地調査が入っている。呉鎮内の施設は木造・煉瓦造・鉄骨造・鉄骨煉瓦造と当時の日本建築の様々な様式の建物が存在し、地盤も山中の花崗岩による堅牢なものから埋立地による軟弱なものまで様々な状況のものが存在した。その異なるケースでの地震被害は貴重な比較データとなり、その後の耐震建築に役立つことになった。 呉鎮が混乱を極めた資料はいくつか残っている。例えば地震直後に有馬新一呉鎮司令長官が海軍省に打電した電報では混乱している状況が伺え、呉海軍病院では先の日本海海戦での負傷兵に加え地震での負傷者が来院したことから病院は大混乱となりスタッフは奮闘した様子が書かれたものがある。 広島県広島市 宇品地区は1889年(明治22年)宇品港(現在の広島港)竣工より形成された埋立地であり、地盤の軟弱性に加え堤防段差を利用した3階建の木造家屋が多数あったことから、地震により多数の家屋が倒壊した。 広島監獄では、木造平屋建瓦葺の第14工場が全壊、死者2人(看守1・囚人1)、重傷者4人軽傷者20人(全員囚人)を出した。この地は元々水田だったところを1885年(明治18年)から盛土造成した土地であり、形成されてから20年しか経っていない土地の上に監獄(刑務所)という堅牢な建物が作られていた状況であったが、全壊したのが一棟だけで後は傾いたり部分倒壊に留まったため、囚人脱走を防ぐことが出来た。 本願寺広島別院の茶室(嘉永年間ごろ建立)が全壊。 鉄道においては、宇品線丹那駅付近の線路が1尺(約30センチメートル)ほど沈下し、その他宇品線の複数の駅施設が若干傾いたものの大きな被害はなかった。山陽本線太田川鉄橋と宇品線大洲口鉄橋の橋脚に亀裂が発生したものの通行に支障はなかった。 道路橋は己斐橋の基礎杭が5尺(約1.5メートル)ほど沈下したのが最大で他は特別被害に合わなかった。 愛媛県松山市/道後 広島と比べると被害が小さく、顕著な建物被害は木造のものであった。その中でも被害が大きかったのが高浜/三津浜地区および伊予郡である。この地区は古くからの漁港であり三津浜港開港以降近代発展した港町で、砂丘の上に雑多な木造建築がある状況が被害を大きくした。 その他 震源に近い山口県岩国で大きな揺れがあったが、その他の地域では大規模な被害はなかった。
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