黒竜会とアジア革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:43 UTC 版)
武田範之は朝鮮の東学党と親交をむすび、内田良平らと天佑侠を組織する。明治26年(1893年)には樽井藤吉が『大東合邦論』を刊行し日朝対等の合邦を説いて、武田や内田良平や権藤らに影響を与えた。武田はその後、明治28年(1895年)10月8日の閔妃暗殺事件(乙未事変)に関わった嫌疑で逮捕されるが証拠不十分で不起訴。長崎で武田範之に金銭的な支援をした。 1900年、上京し、同志とともに皇民一性会や成章学苑をおこし、日本の制度、典礼の学を研究しながら、1902年に内田良平らの黒竜会に参加し、対露開戦、日韓合邦論を主張した。弟の権藤震二も、宮崎来城とともに黒竜会に参加している。黒竜会での活動を通じて、李容九(一進会)や黄興(華興会)、宋教仁・孫文(興中会)らとアジア革命のために連携し、交遊した。 明治37(1904年)、李容九ら一進会や黒竜会は日韓合邦後、満州に移住し「大高麗国」「鳳の国」を作るという計画をたて、黄興、孫文、宮崎滔天、松永安左衛門、康有為、梁啓超、犬養毅、柏原文太郎らも賛同した。ただし、この建国構想では土着民による自治と共和を理想としたものであり、現地民排斥による日本人移民の計画ではなかったことに注意すべきである。善太郎は黒竜会メンバーとして朝鮮、中国、ロシアなどを訪ねた。中国、上海にいたころ、革命が勃発すると在中日本人同志とともに革命指導者の一員として参加した。1908年中国人向けの漢文雑誌「東亜月報」を発行した。 1910年には韓国併合が成立したことで、李容九ら一進会は解散させられ、日韓合邦も満州での「鳳の国」計画も挫折し、武田範之らは失意のうちに1911年に亡くなり、権藤も挫折感を味わう。
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