たかのいど〔たかのゐど〕【鷹の井戸】
鷹の井戸
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『鷹の井戸』(英: At the Hawk's Well)は、アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツによる一幕物の戯曲であり、1916年に初演され、1917年に出版された。古代アルスター神話の英雄であるクー・フーリンの物語をもとにしてイェイツが作り上げた5作の戯曲のうちの1作である[1]。日本の能の特徴を多数取り入れた英語の芝居としては最初に書かれたものである。
- ^ The other Cuchulain plays by Yeats are: On Baile's Strand, The Green Helmet, The Only Jealousy of Emer, and The Death of Cuchulain,
- ^ a b c d e f 『ケルティック能 鷹姫 2017.2.16 (木) Bunkamuraオーチャードホール』、上演パンフレット、2017。
- ^ a b 松村 2002.
- ^ Yeats, W. B.: "Selected Plays" p. 113. Penguin Books, 1997.
- ^ Yeats, W. B.: "Selected Plays" p. 114. Penguin Books, 1997.
- ^ 小堀隆司「イェイツ『鷹の井戸』 : 転生のための不可能性」『城西人文研究』17.2(1990):126-94、p. 125。
- ^ a b 武石みどり「『鷹の井戸』の音楽 : 東西文化の出会いから生まれたもの」『研究紀要』38 (2014):25-45、p. 25。
- ^ “サイモン・スターリング”. 横浜トリエンナーレ. 2017年3月21日閲覧。
- ^ 武石みどり「『鷹の井戸』の音楽 : 東西文化の出会いから生まれたもの」『研究紀要』38 (2014):25-45、p. 29。
- ^ 小山内伸 (2010年6月9日). “イエーツの原作、能楽舞踊劇に”. 朝日新聞 2017年3月21日閲覧。
- ^ “ケルティック能『鷹姫』”. 2017年3月21日閲覧。
鷹の井戸
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「ウィリアム・バトラー・イェイツ」の記事における「鷹の井戸」の解説
同時期にイェイツはまた、のちに重要なモダニスト詩人とみなされることになるエズラ・パウンドと知り合う(1909年)。当時パウンドはフェノロサによる能楽集の英訳編集に関わっており、彼を通じてイェイツは日本の能に深い関心を抱くこととなった。能楽の簡潔な舞台や様式の重視・非現実的な舞台設定といった要素がイェイツの象徴主義に通じ、またイェイツがオスカー・ワイルドから受け継いだ仮面の活用といった手法が応用できることも、彼が能楽に関心を抱いた背景にあると言われる。 能の影響を受けて書かれた最初の戯曲が、1幕物『鷹の井戸』(At the Hawk's Well, 1917年刊)である。この戯曲では、不死の泉の水を追い求める主人公クーフリンが、泉を守る神秘的な娘(鷹の化身)にまどわされてついに望みを果たすことができないまま死地におもむく。初演はロンドン富裕層の私邸で、選ばれたわずかな観客を前に行われた(このとき鷹を演じたのは、日本人舞踊家の伊藤道郎である)。以後イェイツは『エマーの嫉妬』(The Only Jealousy of Emer, 1919年刊)から『クーフリンの死』(The Death of Cuchulain, 1939年刊)まで、ほぼ同様の構成を踏襲した作品を発表しつづける。 イェイツが『鷹の井戸』を上演してまもなく、ダブリンで「イースター蜂起」が起きる。これは1916年4月24日の復活祭に、武装した活動家や農民がダブリン市内の郵便局などを占拠、アイルランド共和国政府の樹立を宣言した事件である。蜂起は1週間ほどでイギリス軍によって完全に鎮圧され、指導者15人は銃殺された。その中にはイェイツの知人や、モード・ゴンの夫も含まれていた。この事件の深い衝撃をもとに書かれた詩「1916年復活祭」(Easter 1916)はイェイツの代表作の一つとされている。
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