那珂忠左衛門とは? わかりやすく解説

那珂忠左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:20 UTC 版)

秋田騒動」の記事における「那珂忠左衛門」の解説

秋田杉直物語悪役にされた那珂忠左衛門は旧名那珂采女と言い作中では那河や那可などと記載される那珂忠兵衛通実とも言う。那珂1751年(寛延4年)に『秋田昔物語』を著していて、これは彼の遺著になっている。『秋田昔物語』(『羽侯有明昔物語』、『昔物語』、『羽侯昔物語』、『那珂通実昔物語』、『那珂忠左衛門昔物語』などの写本があり、多く秋田公文書館所蔵されている)は秋田叢書 第9巻収録されており、深澤多市解説には「子孫奉公の種にすべしとのことにて書き記した」とある。 同書には藩政初期には銀鉱山の隆盛によって、藩財政潤沢であった様子(p.31)や「藩主一言自分を殺さなければいけなくなったり、一言藩主に弓をひくようになったりする。…古来家来おろそかにして身を殺され主人諸書記録されている」(p.50)という記述、既に佐竹義格時代佐竹義道那珂は共に藩主の共をしたこと(p.52)、「孔子の道で天下太平治めるのは大切なことだが、日本では唐の通りにはならない。その国々毎に政治気風性格があるのだ」(p.66)などの記述がある。 井上隆明同書を「藩史親し向きならば、一度は読まねばならぬ著名となっている。しかも人間言動を主とし俗人眼力ではない。秋田第一級随筆本とためらいなく推せるだろう」と評価している。 那珂佐竹家譜や国典類抄に大館から養子入りしたとある。用人財用奉行大坂蔵屋敷5年務めその後愛宕下御前様頭役務めている。国典類抄によれば事件の後次男小姓である村野右衛門親孝と大館給人実兄三郎左衛門宗英とともに処罰されている。孫の政五郎未成年のために難をのがれた菅江真澄友人であった那珂碧峰は、那珂氏の祖に那珂忠左衛門がいるため、藩の重臣になることを遠慮している。 那珂忠左衛門は末期養子である。那珂実家の忍家は佐竹義宣からの新参で、大館給人先祖武州領主考えられる現存那珂氏の系図からは那珂忠左衛門の名はない。久保田の手柳生流天明時代門弟帳の中に那珂要人という人物免許皆伝師範になっていて、那珂名乗る門弟多数見える。土居輝雄はこの事実から那珂一族頂点であった左衛門柳生流免許皆伝であったことは間違いないろうとしている。忠左衛門長男新兵衛は早死し、妻は次男右衛門養子先野村家引き取られていた。土居輝雄は那珂忠左衛門が藩主義明を裏切った契機は、宝暦7年4月佐竹義明がその次男と妻を江戸松平屋敷引き取れ命令したことに発するとした。那珂はこれを藩主から佐竹氏との縁切り言い渡されたと考え怒り陰謀企てたとする。

※この「那珂忠左衛門」の解説は、「秋田騒動」の解説の一部です。
「那珂忠左衛門」を含む「秋田騒動」の記事については、「秋田騒動」の概要を参照ください。

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