遺産と歴史学者による評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)
「サルゴン2世」の記事における「遺産と歴史学者による評価」の解説
サルゴン2世が戦場で落命し遺体が失われたことは当時のアッシリア人にとって悲劇であり、災厄の前兆と受け止められていた。この不運を被ったことは、サルゴン2世が何らかの形で罪を犯し、そのために神々が戦場で彼を見放したと考えられた。同じ運命が自身に降りかかることを恐れたサルゴン2世の後継者センナケリブは、すぐにドゥル・シャルキンを放棄し、首都をニネヴェに遷した。父親の運命に対するセンナケリブの反応はサルゴン2世から距離を置くことであり、サルゴン2世は否定され、センナケリブは彼の身に起こったことを認めて対処することを拒否した。センナケリブが他の主要なプロジェクトを始める前に王として最初に取った行動の一つは、タルビス市にあった死・災害・戦争に関わる神ネルガルに捧げられた神殿を再建することであった。 センナケリブは迷信深く、占い師にサルゴン2世がどのような罪を犯したために死の運命が彼に降りかかったのかを問うことに多くの時間を費やした。前704年の小規模な遠征(センナケリブによる後の歴史的記録では言及されていない)はセンナケリブ自身ではなく彼の配下の有力者によって指揮され、サルゴン2世の報復のためにタバルに派遣された。センナケリブはアッシリア帝国からサルゴン2世のイメージを取り除くため多大な時間と努力を費やした。サルゴン2世がアッシュルの神殿に作らせた図像は中庭のレベルを上げることで見ることができなくなり、サルゴン2世の妻アタリアは死亡後、伝統的な埋葬作法と関係なく(他の女性、かつての王ティグラト・ピレセル3世の王妃と同じ棺で)大急ぎで埋葬された。そしてサルゴン2世はセンナケリブの碑文では言及されることがない。センナケリブによる父親の遺産に対する取り扱いは、サルゴン2世がかつてアッシリアの人々を統治したことを彼らが早く忘れ去るよう促したことを示唆する。センナケリブの治世の後には、後世の王たちの祖先としてサルゴン2世は時折言及されている。サルゴン2世の孫エサルハドン(アッシュル・アハ・イディナ、在位:前681年-前669年)、曾孫シャマシュ・シュム・ウキン(バビロン王、在位:前668年-前648年)、そして玄孫シン・シャル・イシュクン(在位:前627年-前612年)がサルゴン2世の名に言及している。 1840年代にドゥル・シャルキンが再発見されるまで、サルゴン2世はアッシリア学において良くわからない人物であった。当時の古代オリエント史に関わる学者たちは、古典古代の作家たちと『旧約聖書』に依存していた。センナケリブやエサルハドンのような幾人かのアッシリア王は『旧約聖書』の複数の箇所で(時にとても目立つ存在として)言及されているが、「サルゴン」は1度しか登場しない。学者たちはサルゴン2世への漠然とした言及に戸惑い、彼をもっと有名な王、即ちシャルマネセル5世、センナケリブ、そしてエサルハドンらいずれかと同一視する傾向があった。1845年、アッシリア学者イジドル・レーヴェンシュテルン(Isidor Löwenstern)が『旧約聖書』で簡単に言及されている「サルゴン」がドゥル・シャルキンの建設者であると初めて主張したが、この時点ではまだ彼は「サルゴン」がエサルハドンと同一の王であると考えていた。ドゥル・シャルキンで発見された遺物が展示され、1860年代にはここから発見された碑文が翻訳されたことで、「サルゴン」が他の王と同一人物ではないという説が実証された。ブリタニカ百科事典第9版(英語版)(1886年)において、サルゴン2世のエントリーが作られ、20世紀に入る頃までには、良く知られていたセンナケリブやエサルハドンと同じ程度に受け入れられ、認識されるようになった。 現代におけるサルゴン2世のイメージは、ドゥル・シャルキンで発見された彼の王碑文と後のメソポタミアの年代記作成者の記録に由来している。今日では、サルゴン2世はサルゴン王朝の創設者であり、新アッシリア帝国の最も重要な王の一人と認識されている。サルゴン2世の死後、この王朝はアッシリアが滅亡するまでほぼ1世紀の間、アッシリアを統治した。彼の最大の建設プロジェクトであるドゥル・シャルキンの建設についての研究を通じて、彼は芸術と文化の庇護者とみなされている。また、彼はドゥル・シャルキンおよびその他の場所で数多くの記念碑と神殿を建設した人物でもあった。軍事的成功によって、偉大な軍事的指導者・戦略家としての業績が定まった。
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