近江屋事件
近江屋事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)
大政奉還の1ヶ月後の慶応3年11月15日、京都の近江屋で土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されるという事件が起こる。世にいう近江屋事件である。 明治になってからの見廻組・今井信郎の自白により、現在では見廻組の犯行であったことが確定しているが、事件当初実行犯として真っ先に疑われたのが新選組であり、現場に残された鞘と二足の下駄、そして事件直後中岡慎太郎が残した証言に、犯人は「こなくそ」という中国・四国地方の方言を使っていた、というのが疑われた主な理由である。近江屋の主人・新助によると、下駄には「瓢亭」の焼印があり、それを持って瓢亭に確認しに行くと、事件当日に新選組隊士に貸したことが発覚し、それによって新選組への疑いが生じたという。しかし、「慶応丁卯筆記」には、一足が祇園二軒茶屋の「中村屋」という料理茶屋の、もう一足が下河原の「噌々堂」という会席料理屋のものであったと書かれている。事件当初現場は混乱しており、たくさんの土佐藩士も駆けつけた。おそらく土佐藩士のものであったと考えられる。下駄は後年になって理由の1つとしてよく取り上げられるようになっているが、当初は手がかりとして重要視されておらず、当時の他の人たちも下駄の話はしていない。刀の鞘こそ、正真正銘犯人の遺留品だった。事件直後に近江屋に駆けつけた田中光顕によると、後から伊東甲子太郎が近江屋に訪れ、その場に落ちていた鞘を見てこれは新選組のものだと証言したというが、伊東がこの時近江屋に駆けつけ、さらにそのような重大な証言をしたという記録はこの田中光顕のもののみである。同じく事件直後に近江屋を訪れた土佐藩士の谷干城は、後述する油小路事件の残党の御陵衛士達に鞘の鑑定を依頼したとしている。御陵衛士達は考案の上、原田左之助の鞘だと証言したというが、実際に証言をしたうちの一人の阿部十郎は、土佐の者たちが声音から新選組に違いないということで調査に来た、としている。もっとも、彼らが鞘を見たところで、よほどの特徴がなければそれが左之助のものだとわかるはずがないのである。やはり当時一番手がかりとして使用されたのは襲われた張本人である中岡の証言にあった、「中国・四国訛の声」であろう。阿部は続いて、その声音が左之助によく似ていたので左之助であろうということになった、と語っている。声が再現できるはずはないので、これは左之助が伊予弁を話していたことから繋げた話だと思われる。谷達はおそらく鞘も提示したのだろうが、阿部の記憶に残っていたのは「声」だった。その理由は、鞘に証拠能力がなく、左之助にたどり着いたのが声音だったからに違いない。谷があくまでも鞘を証拠としたのは、声音という実体のない証拠の脆弱性を承知していたためでなかったろうか。
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