油小路事件
油小路事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:02 UTC 版)
慶応3年11月18日(1867年12月13日)夜、新選組による伊東殺害および御陵衛士殲滅を目的とした大規模な粛清が断行される(油小路事件)。 油小路で新選組に暗殺された伊東の遺体を奪還するため、罠であると知りつつも平助は同志7名と共に現場へ向かう。待ち伏せていた40名以上の新選組隊士らと死闘の末、翌11月19日(12月14日)未明に戦死した。 検死結果によると、額から鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達しておりほぼ即死であったとされる。平助ら4名の遺体は、御陵衛士残党をおびき出すための囮として、数日(3、4日ほど)の間、道端に放置された。 永倉によると、近藤から「(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との指示があり、平助が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎 に斬られたとされている。 また、平助は永倉の深意はくみ取ったものの、魁(さきがけ)先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦に斬られたともいわれている。 他に、永倉の深意を汲み取り退こうとしたところを三浦に後ろから斬りつけられたため、平助は背後から斬られるのは武士の恥として応戦し、数々の傷を負い戦死したとする説もある[要出典]。
※この「油小路事件」の解説は、「藤堂平助」の解説の一部です。
「油小路事件」を含む「藤堂平助」の記事については、「藤堂平助」の概要を参照ください。
- 油小路事件のページへのリンク