油小路事件とは? わかりやすく解説

油小路事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 03:46 UTC 版)

油小路事件(あぶらのこうじじけん)は、江戸時代末期(幕末)に起きた新選組御陵衛士抗争事件。新選組最後の内部抗争にあたる。御陵衛士の伊東甲子太郎藤堂平助服部武雄毛内有之助が殺害された。




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油小路事件

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藤堂平助」の記事における「油小路事件」の解説

慶応3年11月18日1867年12月13日)夜、新選組による伊東殺害および御陵衛士殲滅目的とした大規模な粛清断行される(油小路事件)。 油小路新選組暗殺され伊東遺体奪還するため、罠であると知りつつも平助同志7名と共に現場へ向かう。待ち伏せていた40名以上の新選組隊士らと死闘の末、翌11月19日12月14日未明戦死した検死結果によると、額から鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達しておりほぼ即死であったとされる平助ら4名の遺体は、御陵衛士残党おびき出すための囮として、数日3、4日ほど)の間、道端放置された。 永倉によると、近藤から「(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との指示があり、平助逃げられるように道をあけたが、事情知らぬ隊士三浦三郎 に斬られたとされている。 また、平助永倉深意はくみ取ったものの、魁(さきがけ先生呼ばれたプライド同志見捨てられないので、新選組立ち向かって三浦に斬られたともいわれている。 他に、永倉深意汲み取り退こうとしたところを三浦後ろから斬りつけられたため、平助背後から斬られるのは武士の恥として応戦し数々の傷を負い戦死したとする説もある[要出典]。

※この「油小路事件」の解説は、「藤堂平助」の解説の一部です。
「油小路事件」を含む「藤堂平助」の記事については、「藤堂平助」の概要を参照ください。

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