軸流式ターボジェットエンジンの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/05 09:00 UTC 版)
「軸流式圧縮機」の記事における「軸流式ターボジェットエンジンの開発」の解説
初期の軸流式圧縮機は低効率で、1920年代前半迄の通説はターボジェットエンジンへの適用に懐疑的だったが、1926年に英空軍省技官アラン・アーノルド・グリフィス(英語版)が従来使われていた平板な羽子板状の翼では流れが剥離し、失速してしまっていることを明らかにし、航空機同様の翼型を用いた軸流式ターボジェットエンジン理論を構築した。 第二次世界大戦勃発に伴い、航空機を格段に高速化するターボジェットエンジンの開発は各国で焦眉の急になった。基礎研究が進んでいた英では、1937年頃から蒸気タービンに経験を持つメトロポリタン・ヴィッカースが積極的に取り組んだが難航し、グリフィスの部下フランク・ホイットルは大径で前面投影面積が広く、高出力化に伴い重量も肥大化する構造的弱点を承知の上で、簡素な遠心式ターボジェットエンジンが早期の戦力化に適すると主張し、理想主義を掲げる上官のグリフィスと鋭く対立して袂を分かった。 ホイットルのチームは公言通り遠心式ターボジェットエンジンをいち早く実用化するが、独では同時期にハンス・フォン・オハインが並行して開発を手掛けていたのみならず、更に複雑な軸流式ターボジェットの将来性に確信を抱いていたドイツ航空省技官ヘルムート・シェルプ(英語版)らの後押しで BMW 、ユンカースが困難な技術的課題に挑んだ結果、後退翼を持つ革命的なジェット戦闘機 Me 262 等を世界に先駆けて実戦投入した。圧倒的優速の Me 262 は連合国側に多大な脅威を与えたが劣勢を挽回するには至らず、降伏と共に独の技術者はペーパークリップ作戦等によって米ソが自国に招聘し、青天井の予算を積んで研究開発を続行させた。 東西冷戦は軍用ジェット機開発競争を激化させたが、1940年代末になると遠心式ターボジェットエンジンは上記の機械的限界が顕在化して性能向上の余地が無くなり、1950年代初頭以降は大半が軸流式ターボジェットエンジンで占められるようになった。遠心圧縮式は軸流圧縮式に比べ、小型化に適しており、運転領域が広いため、マイクロガスタービンやホンダジェットの高圧圧縮機に採用されたり、ヘリコプター用のターボシャフトエンジンには、遠心式や軸流式+遠心式の圧縮機が用いられている。
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