軍事的意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
西南戦争は日本最後の内戦となり、士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させて終焉した。士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着した。 一方で、兵力と火力に勝っていながら、鎮台兵は戦術的戦闘ではしばしば西郷軍の士族兵に敗北し、両軍の死傷者数は結果的に大差なかった。田原坂の戦いでは、薩摩軍側は「雨、赤帽、大砲」を脅威としてとらえていた。雨は薩摩軍の主力である前装式銃に不利であり、赤帽は官軍側の旧士族による近衛兵切り込み部隊のことで、平民歩兵は脅威の度合いが比較的低かった。ただし官軍兵の後装式銃は、薩摩軍側の突撃を撃退する際には威力を発揮した。官軍側は小銃弾をひたすら浪費した。この戦争で官軍側が使った小銃弾は約3500万発で、これは2000発撃って薩摩軍兵士一人を殺傷した計算となり、日露戦争時の日本軍側の500発/ロシア兵一人と比べても際立っている。また官軍側の動員した野戦砲は54門であり、大砲は総じてさほど重視されなかった。一方で両軍の海軍力の差は決定的なものであり、海路で鹿児島を衝いた柳原勅使隊は戦局に大きな影響を与え、人吉戦以降の兵士海上輸送も有効に働いた。 兵士の戦意、士気の問題は政府軍にとって解決すべき課題であった。西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まった。西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになった。 スナイドル弾薬製造装置を取り上げられても西郷軍がエンフィールド銃で戦い、巨額の戦費を費やしてこれを鎮圧せざるを得なかったことを反省して、旧式ではあっても継戦能力に優れた前装銃が各地に分散保管されている状況を危険視した政府は、西南戦争後の明治11年からこれらを回収し、まとめてスナイドル銃に改造して、軍による造兵施設の独占と軍用銃の所持を厳しく規制することで、国民の武装を封じて内乱の再発を防ごうと努めた。
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