赤軍新型爆撃機の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 05:12 UTC 版)
「Tu-2 (航空機)」の記事における「赤軍新型爆撃機の開発」の解説
ツポレフ設計局の主任技師アンドレーイ・トゥーポレフは、怠業の罪で1937年10月、内務人民委員部(NKVD)により逮捕・投獄された。この時期、多くの設計者が同様の不幸に遭っており、トゥーポレフもその一人であった。1938年になると、世界情勢は全世界規模での戦争に向けて険悪なものになっていた。来るべき大戦に備え、ソ連政府は労農赤軍の早急なる近代化が必要であると結論付けた。そのためには、まず航空戦力の増強が至急の課題であるとされた。監獄に入れられていた設計者は、NKVDの管轄下に置かれた「特別技術部」(Специальные технические Отделы)において新型航空機の開発を行うよう命ぜられた。名前こそ技術部となっているが、実情は常時監視下に置かれており、牢獄と同義語であった。「特別技術部」のロシア語での略称は「STO」(СТОストー)であったが、これがロシア語で「100」を意味する単語「сто」(ストー)と同じであったことから、この部署の下に置かれる分署には「100」番台の名称が与えられることになった。 トゥーポレフは、分署「103」において高高度急降下爆撃機PB(ПБ:「急降下爆撃機」の略号)の開発に着手した。この機体には航空機「57」(Самолет «57»サマリョート・ピヂスャート・スィェーミ)という開発名称が与えられた。第二次世界大戦の勃発に伴い開発要求は変更され、PBは前線爆撃機FB(ФБエーフ・ベー:「戦前爆撃機」の略号)として開発が継続されることとなった。FBには新たに航空機「103」(Самолет «103»サマリョート・ストー・トリー)もしくは航空機「58」(Самолет «58»サマリョート・ピヂスャート・ヴォースィェミ)という開発名称が与えられた。なお、航空機「58」はトゥーポレフの名前に因んでANT-58(АНТ-58)とも呼ばれる。 FBの開発は、ペトリャコフ、ミャスィーシチェフ、トマシェーヴィチなど他社との競合で行われた。分署「100」では、ヴラジーミル・ペトリャコーフが高高度戦闘機VI(航空機「100」)の開発を行った。これは、のちに急降下爆撃機Pe-2として成功を収めた。分署「102」では、ヴラジーミル・ミャスィーシチェフが高高度爆撃機DVB(航空機「103」)の開発を行ったが、成功は収められなかった。
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