講和なき戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:16 UTC 版)
「傭兵の乱 (カルタゴ)」の記事における「講和なき戦争」の解説
カルタゴを発って後、ハミルカルは捕虜とした反乱軍勢を温厚に扱い、自軍に加わるか、あるいは自由に家路に就くかという選択肢を提案していた。最近の戦闘で得た4,000人の捕虜にも同様の提案を行った。反乱軍指導者連はこのような寛大な扱いをナラバス(英語版)の変節の背後にあった動機と認めて、自軍の崩壊を恐れた。かような寛大な条件は自分たち自身に対しては拡大されないであろうと悟ったのであった。両陣営間の厚情の可能性を除くべく、スペンディウス(英語版)は同僚の指導者ガリア人アウタリトゥス(英語版)に鼓舞されて、ギスコ(英語版)を含む700人のカルタゴ捕虜を拷問の末に死に至らしめた。彼らは手を切断され、去勢され、脚を折られ、坑に投ぜられて生き埋めにされた。傭兵の指導者で数か国語に熟達する雄弁家であったアウタリトゥスは、この虐殺の主たる扇動役としてポリュビオスから引き合いに出されている。今度はハミルカルが自らの得た捕虜を殺した。ここからはいずれの陣営も慈悲を示さず、並外れた戦いの苛烈さがポリュビオスをして「講和なき戦争」と名づけさせた。カルタゴ人に捕虜とされた者はこれ以降いずれも、象に踏みつけにされて殺された。 紀元前239年の3月から9月にかけたいずれかの時点で、それまでは忠誠を示していたウティカとヒッポの市が、カルタゴ駐留兵を殺して反乱側に加わった。ウティカの人々はローマ人へ自市の提供を申し出たものの、相手はサルデーニャ島の反乱者への返答と同様に断った。それまで当地域で行動していた反乱軍は南へ移動し、カルタゴを包囲した。 騎兵戦力で明らかな優位に立っていたハミルカルは、カルタゴ周辺で反乱軍の補給線を襲撃した。紀元前239年の中頃、ハンノとその軍が彼に加わったものの、最良の戦略を巡って2人は一致せず、作戦は停滞した。稀な事態として最高司令官の選択が軍の投票に付されて――おそらく、士官級のみによるものであった――ハミルカルが選出され、ハンノは軍を後にした。紀元前238年初頭、糧食の欠乏が反乱軍にカルタゴの包囲を止めさせた。彼らはチュニスまで退き、そこでより距離を置いた封鎖を維持した。マトス(英語版)が封鎖を続ける間に、スペンディウスは4万人を率いてハミルカルと対決した。前年と同様に、彼らは高みや荒れた地に留まってカルタゴ軍を悩ませた。詳細は典拠において明らかにされていない戦役の時期を経て、ハミルカルは「鋸山」として知られる山道あるいは山脈に反乱軍を封じ込めた。山々で身動きが取れずに食料が枯渇し、反乱軍は自分たちの馬、捕虜、そして奴隷を口にして、マトス(英語版)がチュニスから出撃して自分たちを救出することに望みをかけた。遂には包囲を受けた軍勢はその指導層にハミルカルとの交渉を強いたものの、彼は薄弱な口実でスペンディウスとその副官連を捕虜とした。反乱軍は次いで鋸山の戦い(英語版)において道を戦い開こうと試みて、一人残らず殺戮された。 ハミルカルは続いて紀元前238年暮れにチュニスへと行軍し、当地を包囲下に置いた。市は東西の双方から接近困難であったので、ハミルカルは軍の半分をもって南に位置し、副官のハンニバル(英語版)が残りとともに北についた。鋸山に先立って捕虜とされた反乱軍指導者たちが、市からよく見える場で磔刑に処せられた。マトスは大規模な夜襲を命じ、それがカルタゴ軍の不意をついて多数の死傷者を喫させた。陣営の一つが壊滅し、彼らは携行装備のほとんどを失った。加えてハンニバルと、軍を訪問中であったカルタゴの名士30人からなる派遣団が捕らえられた。彼らは拷問にかけられ、次いで前にスペンディウスと同僚が架けられた十字架へ磔にされた。ハミルカルは包囲を断念して北へ退いた。 元老院はハンノとハミルカルの和解を促し、彼らはともに任務に就くことで合意した。その間にマトスと配下の軍はチュニスを発ち、160キロ(100マイル)南方の富裕な市で、戦争の先立つ時期にカルタゴに対して蜂起していたレプティス・パルバ(英語版)へと進んだ。ハンノとハミルカルは彼らの後を、総計でおそらく4万人となり、軍務に就ける年齢の全カルタゴ市民を含む軍とともに行進した。反乱軍は紀元前238年の半ばから暮れにかけて、待って包囲下に陥るよりも、カルタゴ軍と開けた場で会戦した(英語版)。戦闘の詳細は現存していないものの、残された反乱軍3万人は一掃されてマトスは捕虜となり、カルタゴ軍にはほとんど損害がなかった。他の捕虜が磔刑とされる間に、マトスはカルタゴ市の通りを引きずって行かれ、住民によって苛まれ死に至らしめられた。まだカルタゴと和睦していなかった街や市の大半が今やそのように行ったものの、カルタゴ人の殺戮に対する報復を住民が恐れたウティカとヒッポは例外であった。彼らは持ちこたえようと試みたが、ポリュビオスは彼らもまた「速やかに」、おそらく紀元前238年の暮れか237年が始まってすぐに降伏したと述べる。降伏した街や市は寛大に遇されたものの、カルタゴ人の総督が彼らに押しつけられた。
※この「講和なき戦争」の解説は、「傭兵の乱 (カルタゴ)」の解説の一部です。
「講和なき戦争」を含む「傭兵の乱 (カルタゴ)」の記事については、「傭兵の乱 (カルタゴ)」の概要を参照ください。
- 講和なき戦争のページへのリンク