講和と占領の継続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 00:33 UTC 版)
「ハンガリー第二共和国」の記事における「講和と占領の継続」の解説
1947年2月10日に締結されたパリ条約によって、ハンガリーは1938年から1941年にかけて獲得した領土を全て放棄することとなった。ウィーン裁定は無効となり、ハンガリー国境は、チェコスロバキアに多少の領域を割譲する以外は、1938年11月1日以前のものとなった。ただしこのうち、1938年以前はチェコスロバキアが有していたカルパティア・ルテニアはソビエト連邦によって併合されている。また、24万人のドイツ人が1946年から1948年にかけて、チェコスロバキア側に人口交換という大義名分の下に送り出された(ドイツ人追放)。小農業者党はこの機会にソ連軍の撤退を望んでいたが、ラーコシら共産党の親ソ連派はソ連軍の駐留継続を望んでいた。結局オーストリアのソ連占領区域との連絡のために「必要な数」のソ連軍が駐留するという事が講和条約で定められた。しかしソ連軍はほとんど移動せず、事実上ソ連の占領が継続されることになった。これ以降、ソ連と小農業者党の対立は決定的な物となる。また賠償としてソ連に対して2億ドル、ユーゴスラビアとチェコスロバキアに対して1億ドルの支払を求められた。1947年度予算の4分の1は賠償支払いに充てられ、完済したのは1953年であった。
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