試作車の製作まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 10:36 UTC 版)
「スバル・1500」の記事における「試作車の製作まで」の解説
旧・中島飛行機を前身とする企業の一つで、群馬県伊勢崎市に本拠を置き、バスボディ生産を主力事業としていた富士自動車工業での社内プロジェクトが起源である。 1950年(昭和25年)、富士自動車工業専務取締役の松林敏夫は、普通乗用車の開発を企画した。伊勢崎でのバスボディ生産は好調だったが、当時の日本のバスボディ市場は過当競争状態でパイが限られ、将来的にこれに頼り切ることは好ましくないと考えられたからである。石油供給の好転や朝鮮戦争による特需景気(朝鮮特需)も新たな事業拡張の好機と考えられた。 1951年(昭和26年)1月、富士自動車工業の設計係長であった百瀬晋六は松林から乗用車開発を命じられた。百瀬は長野県塩尻市出身で戦時中に東京帝国大学(現・東京大学)工学部を卒業して中島飛行機に入社、航空エンジン用の排気タービン過給器(ターボチャージャー)開発に取り組んだ経歴もあったが、戦後伊勢崎工場所属となり、専らバスボディの設計に当たっていた。 百瀬はバスボディ設計の傍ら、文献を写真複写する写真家を伴って、東京のGHQの図書館に幾度も通った。こうして海外の自動車に関する最新の資料を収集し、これを研究することで開発の素地を作った。その結果、当時の小型車規格一杯のサイズである排気量1,500ccのセダンを製作することになった。 1952年(昭和27年)6月、中島飛行機時代から現場で叩き上げたベテラン技術者である小口芳門と、東京大学卒の新人であった室田公三が百瀬の下に配属され、彼らを中心とした小チームで、百瀬を主任設計者として1,500cc級の乗用車開発を開始した。一からの自動車開発は初めてであるだけに、関係者は自動車を理解することから開発を始め、苦心を重ねた。 試作車「P-1」のメカニズムは極力先進的な内容を志向し、当時の日本車ではとかく重量が嵩みがちであったことを念頭に、軽量化も考慮された。もっとも試作過程ではボディの製造が間に合わず、先行して製作されたドライブトレインを、トラック同様の仮のチャンネルフレームに組み付け、幌を張られた仮の車体を組んで試走を行う試行錯誤もあった。この試走用チャンネルフレームは社外の零細な鉄工所に外注したが、重量が予定を大幅に超過し、開発陣を悩ませた。 開発期間中に旧・中島飛行機系5企業の出資により「富士重工業」が設立され、1955年(昭和30年)4月には母体5社が富士重工業に吸収・合同することになるが、開発自体はその間も続行されていた。
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