西側への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 05:16 UTC 版)
西側諸国でも、ソ連のメロディア・レーベルの録音に親しんでいるような好楽家や、ソ連旅行をしたことのある人の間では、ベルマンの名が知られていたが、それでもベルマンが1975年にアメリカ合衆国に演奏旅行を行うまでは、概してその名が「鉄のカーテン」の外で有名であったとは言い難い。ニューヨーク・デビューではリストの『超絶技巧練習曲』を演奏して、電撃的な大評判を捲き起こした(アメリカ・デビューはマイアミ大学のスポーツ・アリーナ)。「ニューヨーク・タイムズ」誌は「ベルマンの目もくらむようなテクニックは、ホロヴィッツだけがライヴァルになることができるもの」と絶賛している。この批評に対してベルマンは「畏れ多いことだ」と語っている。 それまでに、すでにソ連では概ね演奏活動を制約され、古びてがたがたのピアノ(象牙の鍵盤のいくつかは剥がれ落ち、透かし彫りの譜面台を照らす照明はロウソクだった)で演奏しながら、なお様々な聴衆の関心を集めていた。外国からの演奏旅行の招請は、ソ連の官立音楽代理店であるゴスコンツェルトによって無視され続けた。ベルマンは2室からなるモスクワの狭いアパートに住み、そのうち1室はグランド・ピアノに占領されていた。後年、ベルマンは、「ピアノを離れて散歩に行くとか、映画を見に行くとかという気持ちにはまったくなれない」と語っており、ピアノに一身をささげていた。 だが1975年の米国デビューの後にベルマンは引く手あまたとなり、ドイツ・グラモフォンやEMI、CBSらが奪い合うようにして録音に起用した。ベルマンはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮で録音しただけでなく、1976年には「国際連合の日」を記念して、アンタル・ドラティの指揮で国際的なテレビ放映に出演した際にも演奏した。1977年には初来日して、やはりクラシック・ファンの注目を浴びた。この時、北海道の札幌で行われた演奏会の模様がTOKYO FMでTDKオリジナルコンサートとしてラジオ放送されたが、ベルマンの強い意向により、その音源はビクターより『サッポロ・リサイタル』として発売された。また、ベルマンの語るところによれば、日本文学の『古事記』を愛読した。 イギリスでの演奏活動は1970年代後半から1980年代初頭に行われた。1976年12月に、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールに出演してプロコフィエフとリストを演奏し、1978年にはクラウス・テンシュテット指揮ロンドン交響楽団と共演して、リストのピアノ協奏曲第2番を演奏した。1984年にはプロムスに出演し、ジョン・プリッチャードの指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を披露した。1970年代後半には、クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団の指揮により、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を録音している。またハチャトゥリアンのピアノ協奏曲を作曲者自身の指揮で録音される計画もあったが、作曲者の死去により実現に至らなかった。
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