西側への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:29 UTC 版)
「S-49 (航空機)」の記事における「西側への接近」の解説
しかしながら、戦後のスターリンとティトーの友好関係は長くは続かなかった。1951年、ソビエト飛行家の「最良の友」(スターリンのことである)は、自身のユーゴスラビアの学友を世界の帝国主義のスパイとして痛烈に批判した。また、国家間の関係は真の冷戦体制へと向かっていった。 ソ連との断絶は、ユーゴスラビアの航空界に痛烈な打撃を与えた。予備部品や航空機の供給が中止され、またソ連の大学やアカデミー、航空学校で学んでいた専門家たちは早急に国外追放された。ティトーは自身の方針を示した。すなわち、これ以来ユーゴスラビアは外国に翻弄されることのない体制を構築する不断の努力を続けることとなった。航空産業もその例外ではなく、航空機の完全な国産化が目指されることとなった。 他国からの独立は無論よいことであったが、ユーゴスラビアはいまだ戦争による荒廃から立ち直っておらずしばらくは自力での空軍への近代的航空機の供給は不可能であった。そこで、すでに開発されていたS-49Aの発展型の開発に平行して、1951年11月にアメリカ合衆国およびイギリスとの軍事的協力の条約が締結された。まもなく、140 機のモスキートと150 機のF-47サンダーボルトがユーゴスラビアへ提供され、その後も西側製の機体が供給された。
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