西側占領地域・西ドイツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)
「ドイツ社会民主党」の記事における「西側占領地域・西ドイツ」の解説
西側占領地域でも社民党は早期に再建された。西側社民党でいち早く頭角を現したのはクルト・シューマッハーであった。彼は強制収容所から釈放された直後の1945年4月にハノーファーの地区支部を再建し、さらにシューマッハー事務局を創設して全国に活動を広げていった。オレンハウアーらロンドンの亡命社民党グループも党再建の主導権を握ろうと独自に策動したものの、やがてシューマッハーの権威を受け入れてその指揮に服するようになった。 シューマッハーは、ヴァイマル共和政時代にソ連のスパイとしてヴァイマル民主主義の破壊を策動し続けた共産党との合同には断固反対の立場であり、ベルリンのグローテヴォールらの社共合同の動きをけん制した。西側社民党ではシューマッハーのオルグにより、圧倒的多数が共産党との合同に反対であり、1946年3月末に東側での社共合同を前に西ベルリンで実施した党員投票(東ベルリンでは実施を禁止された)は、82.2%が共産党との合同に反対との結果が出た。1946年4月末に東側で社民党が共産党に合併されて社会主義統一党が誕生すると、西側社民党はこれを「強制合併」と批判し、反共の立場を鮮明にした。また東側社民党と西側社民党の合同の可能性がなくなったことでシューマッハーの立場は強化され、1946年5月のハノーファー党大会でシューマッハーが党首に選出された。1946年末までに社民党は党員70万人以上持つようになった。 シューマッハーは「我々は国際的社会主義者であると同時に良きドイツ人でありたい」と述べるなどラッサール的に国家や民族を肯定し、また社会主義と民主主義を結合させて多元的価値観に社会主義を基礎づけることを認め、党の思想的開放を唱道した。バラバラになっていた社民党が比較的容易に団結を取り戻したのはシューマッハーのカリスマ的人格によるところが大きかったと言われている。シューマッハーは反共の闘士でもあり、彼によれば共産党はマルクスの継承者などでは全くなく、独裁者スターリンの党であり、ソ連の利益の代弁者に過ぎない。東側社民党が強制合併された後には彼の反共性はさらに強化され、反共の面においては保守政党ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の党首コンラート・アデナウアーにも優るとも劣らなかった。同時にシューマッハーは西側占領国、ドイツ右派、ブルジョワジーも攻撃し、彼らを「ヒトラーの再現」と批判した。さらにナショナルな立場から東西ドイツの再統一を強く主張し、当時西ヨーロッパの社会民主主義者の間で流布していたアメリカともソ連とも異なる政治体制を目指す「第三の道」構想を唱えたため、西側占領当局からも煙たがられる存在であった。
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