衆議院議員選挙に出馬
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1972年、第33回衆議院議員総選挙に旧長野1区(定数3)から無所属で出馬したが、最下位の得票数5位で落選した。この総選挙では、東大1959年入学同期の3人(加藤紘一、与謝野馨、田中秀征)の若手候補が立候補すると週刊誌に取り上げられた。 以後、34・35・36回の各総選挙に無所属で立候補するも、落選を繰り返す。この間、一時的に新自由クラブに籍を置いていた時期があるが、党内の路線対立により離党した。 石田の政界引退決定後、宮澤喜一に師事したいと石田に報告すると、「宮澤も石橋湛山の信望者だ」と喜ばれる。石橋、石田、宮澤の3人とも田中同様にジョン・スチュアート・ミルの「自由論」の愛読者だった。1983年の第37回衆議院議員総選挙の前に京都大学教授の高坂正堯が田中を伊東正義に紹介、伊東が宮沢に引き合わせる。第37回衆議院議員総選挙では自民党の公認を受け、旧長野1区でトップ当選を果たした(当選同期に田中直紀・熊谷弘・二階俊博・額賀福志郎・野呂田芳成・衛藤征士郎・金子原二郎・尾身幸次・北川正恭・町村信孝・伊吹文明・自見庄三郎・大島理森・野呂昭彦・中川昭一・鈴木宗男・甘利明らがいる)。なお、この選挙において自民党は旧長野1区の3議席の独占を目論み、ベテランの小坂善太郎に加え新人の若林正俊、田中の3候補を擁立したが、新人の田中、若林がそれぞれ得票数1位、2位で当選した一方で最も得票数の少なかったベテランの小坂が日本社会党の清水勇の後塵を拝し、得票数4位で落選した。 同年12月26日の初登院で、本会議場の議席に座っていると突然回りがざわついた。顔をあげると、なんと目の前に田中角栄が立っていて、「君が田中秀征君か。10年間よくがんばった。立派、立派。期待しているぞ。」と声を掛けられ、隣席の二階俊博に「田中先生と初対面なのか。他の派閥だけでなく、他の党まで挨拶に行くのに、あなたは挨拶に行かなかったのか。」と驚かれた。若輩が最高実力者に表敬の挨拶に行かないならば、軽視、無視するかいじわるするのが普通なのに、わざわざ席にきて激励する意外な出来事に驚き、田中角栄をかなり誤解していたことに気づく。当選後、宏池会に入会、宮澤喜一に師事し、宮澤が執筆した「国連常設軍の創設と全面軍縮」の論文を手伝うなど側近として行動する。 1985年2月、田中角栄が倒れる前々日の演説で、「ひとの事業を引き継ぐなんて簡単なことだ。自分の力で創業することがどんなに大変か。あの田中秀征を見てみなさい。」と話をしていたことを本会議場の隣席にいた二階俊博から聞き衝撃を受ける。翌日花束を持って田中角栄が入院する東京逓信病院に見舞いに出かけた。面会謝絶なので記帳だけして帰ってきたが、田中角栄とじっくり話す機会がなかったことを悔やむ。この年、自民党結党30周年で、党の機関紙を通じて「昭和60年綱領をつくろう」と呼びかける。金丸信幹事長に直談判すると賛成してくれ、政綱等改正人事委員会の人事により、井出一太郎委員長、渡辺美智雄委員長代理、海部俊樹事務局長、小渕恵三委員の体制で、一年生議員にもかかわらず委員に抜擢され、綱領の起草一切を任される。草案は改正委員会を通ったが、「われわれは憲法を尊重する」「時代の変化に応じて絶えず見直しの努力を続けていく」の条項に他の党機関が待ったをかけ袋叩きにされ、選挙区には極左であるような怪文書が舞かれた。この時、思想的に隔たりがある平沼赳夫は田中の努力を認め異論を唱えず、浜田幸一は「石垣に爪を立てて登ってきたのは俺とあんたの二人だけだ。」と常に文句なしに賛成してくれたという。 1986年の第38回衆議院議員総選挙では、前回2位の若林がトップ当選し、約1千票差で社会党の清水が続いたが、3位に捲土重来を期した小坂善太郎が滑り込み、小坂の得票を約2千票下回った田中が落選した。浪人中、周囲に内緒で、学士入学して中退していた北海道大学に再入学した。直後に、天安門事件が起こり胡耀邦、趙紫陽など進歩的な指導者が台頭、ミハイル・ゴルバチョフの手でペレストロイカが進んでいたこともあり、行政法や社会主義経済論、中国現代史を学び、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの教授陣と議論した。 1990年の第39回衆議院議員総選挙では再び旧長野1区でトップ当選を果たし、4年ぶりに国政に復帰した。前回トップ当選の若林は得票数4位で落選し、奇しくも旧長野1区では、前回トップ当選した候補者が落選する構図が3回続いた(1983年に落選した小坂善太郎は、その前回の第36回衆議院議員総選挙ではトップ当選)。またこの総選挙では小坂善太郎が引退し、次男の小坂憲次が当選した。当選を果たした翌日、札幌へ行って北海道大学の卒業試験を受けた。当選をしたのに当の本人がいなくなったと地元で大騒ぎになった。卒業式の日の懇親会に参加したら、共同通信に入社する学生が田中を見つけて通信社に報告、「現職代議士、北大を卒業」と地方紙や北海道のテレビ局で大々的に報道された。 1991年11月、宮澤内閣が誕生すると、生活大国構想を政府の正式な経済計画にするため、経済企画政務次官に就任し、数十回に及ぶ経済審議会の会合に休むことなく出席し、宮澤の手伝いをした。
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