衆議院議員選挙に出馬とは? わかりやすく解説

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衆議院議員選挙に出馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 06:32 UTC 版)

田中秀征」の記事における「衆議院議員選挙に出馬」の解説

1972年第33回衆議院議員総選挙に旧長野1区定数3)から無所属出馬したが、最下位得票数5位で落選した。この総選挙では、東大1959年入学同期の3人(加藤紘一与謝野馨田中秀征)の若手候補立候補する週刊誌取り上げられた。 以後343536回の各総選挙無所属立候補するも、落選繰り返すこの間一時的に新自由クラブに籍を置いていた時期があるが、党内路線対立により離党した石田政界引退決定後、宮澤喜一師事したいと石田報告すると、「宮澤石橋湛山信望者だ」と喜ばれる石橋石田宮澤の3人とも田中同様にジョン・スチュアート・ミルの「自由論」の愛読者だった。1983年第37回衆議院議員総選挙前に京都大学教授高坂正堯田中伊東正義紹介伊東宮沢引き合わせる第37回衆議院議員総選挙では自民党公認を受け、旧長野1区トップ当選果たした当選同期田中直紀熊谷弘二階俊博額賀福志郎野呂田芳成衛藤征士郎金子原二郎尾身幸次北川正恭町村信孝伊吹文明自見庄三郎大島理森野呂昭彦中川昭一鈴木宗男甘利明らがいる)。なお、この選挙において自民党は旧長野1区の3議席独占目論み、ベテラン小坂善太郎加え新人若林正俊田中の3候補擁立したが、新人田中若林それぞれ得票数1位、2位当選した一方で最も得票数少なかったベテラン小坂日本社会党清水勇後塵拝し得票数4位で落選した同年12月26日初登院で、本会議場議席座っていると突然回りがざわついた。顔をあげると、なんと目の前に田中角栄立っていて、「君が田中秀征君か。10年間よくがんばった。立派、立派。期待しているぞ。」と声を掛けられ隣席二階俊博に「田中先生初対面なのか。他の派閥だけでなく、他の党まで挨拶に行くのに、あなたは挨拶に行かなかったのか。」と驚かれた。若輩が最高実力者表敬挨拶行かないならば、軽視無視するかいじわるするのが普通なのに、わざわざ席にきて激励する意外な出来事驚き田中角栄をかなり誤解していたことに気づく当選後宏池会入会宮澤喜一師事し宮澤執筆した国連常設軍の創設全面軍縮」の論文手伝うなど側近として行動する1985年2月田中角栄倒れ前々日演説で、「ひとの事業引き継ぐなんて簡単なことだ。自分の力で創業することがどんなに大変か。あの田中秀征見てみなさい。」と話をしていたことを本会議場隣席にいた二階俊博から聞き衝撃を受ける翌日花束持って田中角栄入院する東京逓信病院見舞いに出かけた。面会謝絶なので記帳だけして帰ってきたが、田中角栄とじっくり話す機会がなかったことを悔やむ。この年自民党結党30周年で、党の機関紙通じて昭和60年綱領をつくろう」と呼びかける金丸信幹事長に直談判すると賛成してくれ、政綱改正人事委員会人事により、井出一太郎委員長渡辺美智雄委員長代理海部俊樹事務局長小渕恵三委員体制で、一年生議員にもかかわらず委員抜擢され綱領起草一切任される草案改正委員会通ったが、「われわれは憲法尊重する」「時代の変化に応じて絶え見直し努力続けていく」の条項に他の党機関待ったをかけ袋叩きにされ、選挙区には極左あるよう怪文書が舞かれた。この時、思想的隔たりがある平沼赳夫田中努力認め異論唱えず浜田幸一は「石垣に爪を立てて登ってきたのは俺とあんたの二人だけだ。」と常に文句なし賛成してくれたという。 1986年第38回衆議院議員総選挙では、前回2位若林トップ当選し、約1千票差で社会党清水続いたが、3位捲土重来期した小坂善太郎滑り込み小坂得票を約2千票下回った田中落選した浪人中、周囲内緒で、学士入学して中退していた北海道大学再入学した。直後に、天安門事件起こり胡耀邦趙紫陽など進歩的な指導者台頭ミハイル・ゴルバチョフの手ペレストロイカ進んでいたこともあり、行政法社会主義経済論、中国現代史を学び北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授陣議論した1990年第39回衆議院議員総選挙では再び旧長野1区トップ当選果たし4年ぶりに国政復帰した前回トップ当選若林得票数4位で落選し奇しくも長野1区では、前回トップ当選した候補者落選する構図3回続いた1983年落選した小坂善太郎は、その前回第36回衆議院議員総選挙ではトップ当選)。またこの総選挙では小坂善太郎引退し次男小坂憲次当選した当選果たした翌日札幌行って北海道大学卒業試験受けた当選をしたのに当の本人がいなくなった地元大騒ぎになった卒業式の日の懇親会参加したら、共同通信入社する学生田中を見つけて通信社報告、「現職代議士北大卒業」と地方紙北海道テレビ局大々的報道された。 1991年11月宮澤内閣誕生すると、生活大国構想政府正式な経済計画にするため、経済企画政務次官就任し数十回に及ぶ経済審議会会合に休むことなく出席し宮澤の手伝いをした。

※この「衆議院議員選挙に出馬」の解説は、「田中秀征」の解説の一部です。
「衆議院議員選挙に出馬」を含む「田中秀征」の記事については、「田中秀征」の概要を参照ください。

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