薩摩藩の討幕路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:54 UTC 版)
四侯会議の失敗は、将軍徳川慶喜の存在を前提としながらも、諸侯会議を中心に据えて幕府体制を変革しようとしていた薩摩藩(島津久光)の従来の方針に大いに変更を加えるきっかけとなった。ここから薩摩藩が前年初頭に締結された薩長同盟による長州藩との連携に基づき、慶喜の将軍職剥奪および慶喜を中心とした一会桑権力の打破、さらに最終的には幕府の倒壊までを見据えた武力倒幕路線が登場する。早くも四侯会議崩壊直後の5月25日に京都薩摩藩邸で行われた重臣会議で、幕府との武力対決路線が確認されている(ただし、この時期の薩摩藩の武力行使対象に江戸の幕府組織そのものまで考えていたかどうかについては諸説分かれる。脚注も参照)。 6月初め、大久保は鹿児島へ藩主島津忠義および一大隊の上京を求めた。当時、京都の大久保寓居には、同盟中の長州藩士品川弥二郎が政情視察のため居候していたが、そこへ同藩の山県有朋が密かに上京してきたのを受け、6月16日久光は山県・品川を引見し、近日中に西郷隆盛を山口へ派遣する予定であることを告げ、山県に6連発のピストルを下賜。さらに両名に先に山口に帰国して両藩が「連合同心戮力して大義を天下に鳴らさん」との方針を長州藩首脳部へ伝えるように依頼した(結果的に薩土盟約の成立によって西郷派遣は中止となり、山県は藩内で面目を失うことになり、一時期奇兵隊本営のあった吉田に引きこもることになる)。
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