薩摩藩への影響
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上述のように幕府は天保6年(1835年)末の段階で、薩摩藩側に抜荷を取り締まるよう通達した。通達は唐物抜荷によって長崎会所の貿易に支障が出ており、これは国政に関わる問題であるとした上で、薩摩藩が幕府公認の上で長崎で行っていた唐物販売の差し止めを示唆する内容であり、薩摩藩としても重く受け止めざるを得ない内容であった。 幕府の強硬姿勢に薩摩藩は神経を尖らせた。天保7年(1836年)2月、薩摩藩は領内に唐物の不法所持、密売買を禁止する命令を下した。唐物の不法所持、密売買を禁止する方針は薩摩藩領内ばかりでなく、琉球そして薩摩船が航行する北国、関東方面の交易にも適用されていった。薩摩藩が恐れていたのは先の通達で幕府がほのめかしていた、幕府公認の長崎で行っていた唐物販売の差し止めであった。 実際問題、天保6年(1835年)末の幕府からの通達に加え、第一回唐物抜荷事件の発覚で、新潟への薩摩船の航行は激減し、紀州船など他国の船を名乗ったり、他藩の船を利用して航行するような状況となった。しかし天保7年(1836年)4月の長崎奉行久世広正の言上書では、第一回唐物抜荷事件について指摘した上で、薩摩藩の抜荷取り締まりは不十分であり、唐物の売りさばきルートを設けた形となっている薩摩藩の唐物販売は抜荷取り締まりに悪影響を与えていると想定され、さらに長崎会所の経営を圧迫しているとして差し止めを要求した。 第一回唐物抜荷事件の発覚は幕府の姿勢をさらに硬化させた。明らかになった唐物抜荷の実態は、文政8年(1825年)の長崎で貿易を行っている中国人商人からの訴えや、天保5年(1834年)に老中から勘定奉行に提示された風聞書の内容を裏書きするようなものであり、長崎会所の経営を困難に追い込む薩摩藩の唐物販売の弊害を実感させた。久世広正は薩摩藩の唐物販売の運営システムを考慮して、3年後の天保10年(1839年)に薩摩藩の唐物販売の停止を断行するよう提案して幕閣内の承認を受けた。天保7年6月19日(1836年8月1日)、老中水野忠邦は薩摩藩主島津斉興に対し、天保10年(1839年)に薩摩藩の唐物販売を停止する旨、通告した。
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