唐物抜荷事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/31 03:19 UTC 版)
唐物抜荷事件(からものぬけにじけん)は[注釈 1]、江戸時代後期の天保6年(1835年)、天保11年(1840年)の二度に渡って新潟町を主な舞台として発覚した、中国製品(唐物)の抜荷事件である。事件の発生地である新潟では事件後新潟町が上知され、薩摩藩や琉球王国、蝦夷地、そして長崎で抜荷対策が強化される等、各地に事件の影響がおよんだ。
注釈
- ^ 記事名については、事件の発生地である新潟市史、新潟県史が採用している唐物抜荷事件とする[1][2][3]。
- ^ 幕府は薩摩藩が朝鮮とも抜荷取引を行っているのではないかとの疑いを持っており、捜査、警戒が行われる中で浜田藩の密貿易である竹島事件の検挙に繋がったという説がある[13][14][15]。
- ^ 天保10年3月7日(1839年4月20日)の判決に伴う過料銭納入者は、越後、信濃、越中、上野の計57名が対象者とされている[47]。
- ^ 32名の商人らについては、第一回唐物抜荷事件に直接関わりはなく、以前から抜荷の唐物を買取、所持、売却していたことが摘発されたとする見方もある[60]。
- ^ 第一回唐物抜荷事件以後も、薩摩藩の了承を得ながら他藩の船を偽装しての抜荷が行われていた可能性が指摘されている[66]。
- ^ 新潟町の有力商人であった高橋次郎左衛門と当銀屋善平に関しては、新潟の町年寄が釈放運動のため江戸へ上り、賄賂を裁判担当役人に贈ったことが摘発され、町年寄が処罰されることになった[72]。
- ^ 再犯者としては三条屋忠助の他に加賀屋専助がいたが、専助は三条屋忠助よりも違法性が少なかったためか、他の商人らと同様の判決であった[75]。
- ^ 唐物の売却先には、薩摩藩を通して日本本土に流通していくものの他に琉球国内消費用があり、唐物管理規定にはそれぞれ別の取り扱いが規定されていた[90]。
- ^ 幕府は蝦夷地で活動する商人たちや、山丹貿易の中でロシア人らとの間に交易が行われているのではないかと恐れ、搾取にあえぐアイヌがロシア側につくことを警戒していた[99][100][101]。
出典
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