芸能人代議士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 00:41 UTC 版)
1946年4月10日、戦後初の衆議院議員総選挙に一人一党の日本正論党を掲げ大選挙区の東京都第1区から立候補。この選挙は女性議員が数多く出馬し初当選して話題を呼んだが、石田も今度は「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」などと演説の間に持ち歌を歌って人気を集め、鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎らに次ぐ7位で当選した。当時は「タレント」という言葉が無かったので「芸能人代議士」と呼ばれた。このため今日言われるタレント議員・第一号とされその草分けとされる。 この後、中選挙区の東京5区から連続当選4回し代議士として活動。三木武夫と行動を共にし国民協同党、改進党に属した。議席を得ても芸能活動は辞めず昼は国会、夜はステージに立った。1951年、国民民主党に名前を変えていた党の党議に背き日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して離党。また、日本共産党の川上貫一議員の除名決議に際しても「国会での発言封じは民主主義の危機」と主張し反対票を投じる(しかし川上は賛成多数となり除名が決定)。1953年の「バカヤロー解散」による総選挙で落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗。その後もヒロポン中毒に悩まされながら寄席に出演し続けた。1956年、長年にわたり打ち続けたヒロポンで身体はがたがたに蝕まれ胃癌により死去。享年53。
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