能楽の崩壊と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:15 UTC 版)
1869年、エディンバラ公アルフレッド王子来日に際し、赤坂の紀州藩別邸で饗応のため4番の能が催され、九郎は略式の「羽衣」を舞った。 しかしあくまで九郎は幕府に殉じて、能の道を離れるつもりであった。算盤を習い、他人に宝生家を嗣がせると、名も伊賀屋九助と改めて商人になろうとした。もっともこれは上手くいかず、1871年には帰農届を出して、板橋で一農夫として暮らし始めることとなる。 一方この頃、東京では前金剛大夫・金剛唯一や、観世座のツレ役者であった初世梅若実(当時梅若六郎)らが地道に活動を続けていた。また欧米を視察した岩倉具視などの要人にも、能楽保護の動きが起こり始めていた。 隠居していた九郎に、能楽界への復帰を強く勧めたのが梅若実であった。当初これを固辞していた九郎であったが、やがて1872年頃から梅若舞台や金剛舞台での稽古能などに出演するようになる。1874年には東京へ戻って、深川吉永町に住した。以後「深川」は九郎の代名詞となった。 1876年4月、岩倉具視邸に明治天皇・昭憲皇太后が行幸啓し、前田斉泰父子、梅若実とともに、九郎は「熊坂」(半能)・「紅葉狩」・「望月」を天覧に供した。これは実の計らいによるものであり、これによって九郎は本格的に能楽界に復帰することとなった。 以後、九郎は実らとともに能楽界の中心人物として活躍する。1878年、英照皇太后の青山御所に能舞台が建てられた際にはその御用係の一人となり、また1881年4月、岩倉が中心となって作られた後援団体・能楽社が建設した芝能楽堂の舞台開きでは、「翁」付「高砂」を演じた。1885年に自流の舞台を持つまでは、この芝能楽堂が九郎の主要な活動の場となった。
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