舞台開き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/02 08:21 UTC 版)
舞台の落成を受けて1881年(明治14年)4月16日、九条道孝、前田斉泰、池田茂政、藤堂高潔、坊城俊政、前田利鬯を発起人とし、「能楽社」が正式に設立された。 同日、英照皇太后の行啓を仰いで舞台開きが催され、宝生九郎が「翁」「高砂」(ワキ・宝生新朔)を、観世清孝が「田村」、梅若実が「桜川」、金剛唯一が「鞍馬天狗」、そして櫻間伴馬が半能「加茂」を舞った。また17日には華族たちを対象に、そして18日には一般への公開能が開かれ700人あまりの観客を集めた。 当初この舞台は単に「能舞台」などと称されていたが、同年6月に宝生九郎が出した新聞広告に「芝公園内楓山能楽堂」の語があり、少なくとも1882年(明治15年)には能楽社関係者の中でも「能楽堂」の称が用いられている。1882年(明治15年)頃からは「芝能楽堂」の表記が見え、後にはこの呼称が一般的となり、また「芝公園の能楽堂」「紅葉館の能楽堂」などとも呼ばれた。のち、「能楽堂」の称は同様の形式を持つ能舞台全般に広く用いられることとなった。 芝能楽堂ではすでに能楽界の第一人者と見なされていた梅若実、宝生九郎に加え、1882年(明治15年)頃から台頭した櫻間伴馬などが、観客の人気を博した。後に「明治の三名人」と呼ばれたこの3人のほか、金春広成、観世清廉、観世銕之丞(紅雪)、またワキ方ながら三名人に劣らぬ人気を誇った宝生新朔といった名人・名手が活躍を見せ、芝能楽堂は「能楽再興の灯明台」と目されるに至った。
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