ほうしょう‐くろう〔ホウシヤウクラウ〕【宝生九郎】
宝生九郎
宝生九郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:06 UTC 版)
宝生九郎とは「明治の三名人」として並び称された間柄であったが、伴馬の腕を認めた九郎は上京当初から何かとその世話を焼き、また伴馬も「九郎先生ほど自分の気持を理解して下さる人はない」と全幅の信頼を寄せた。九郎は煙草を好んだため、煙草屋をやっていた櫻間家から、弓川が熊本産の煙草を届けていた。 しかし伴馬は吃音の上、強い熊本訛りがあり、家族でさえ話の内容が解らないことがあるほどだった。しかも、一方の九郎はかなり耳が悪かった。意思疎通を心配する弓川に対して、伴馬は「ナーニ、九郎さんは俺の話が一番よく判るんだ」と嘯いていたが、後年池内信嘉が弓川に語ったところによると、九郎は「伴馬が来ても、何を話して居るのかサツパリ判らなくつて弱るよ」と洩らしていたとのこと。 また九郎は舞台に立つ機会に恵まれない弓川の境遇に同情し、伴馬と相談して、12年間にわたり、隔月で宝生会の舞台に客演させた。この舞台のために伴馬は弓川に必死の稽古をさせ、まさに真剣勝負の意気込みで臨んだ。 九郎、また同じ「三名人」の梅若実が、指導者として能楽界に強力な影響力を発揮したのとは反対に、伴馬は生涯一能役者としての態度を貫いた。また、宝生九郎が弟子はおろか弓川についても、能評で誤ったことを書かれればすぐさま反駁したのに対し、伴馬は自分が賞められているのを読んで「ウム、少しは能が分つて来たカナ」と呑気に受け流す、といった具合で、まるで正反対であった。
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