縄文原体研究と炭素14年代測定法の批判とは? わかりやすく解説

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縄文原体研究と炭素14年代測定法の批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:24 UTC 版)

山内清男」の記事における「縄文原体研究と炭素14年代測定法の批判」の解説

1946年民族研究所調査のため満蒙北支方面調査中、江上波夫とともに安東終戦迎え帰国が困難となった八幡一郎代わり山内東京帝国大学理学部人類学教室非常勤講師になり、翌年には委託講師となった戦後になって山内戦前から温めていた縄文原体研究をまとめ始めた。そして縄文原体はじめとする縄文総合的研究1962年3月31日、「日本先史土器の縄紋」として京都大学提出された。この論文により山内京都大学より文学博士学位授与され同日東大停年退官4月成城大学文芸学部教授就任した一方で山内縄文時代始まりについて、ヨーロッパ土器年代石器年代から約3,000年前としていたが、戦後になって夏島貝塚縄文時代早期包含層の炭素14年代測定が行なわれたところ、約9,500年前という結果がでた。これに反発した山内は「縄紋草創期諸問題」のなかで型式増加しすぎた縄文時代早期縄文時代草創期縄文時代早期分けた上で草創期年代を約4,500年前と主張し炭素14年代測定法による年代観を、「極端な年代インフレーション」「アメリカ帝国主義崇拝」「八紘一宇思想」(「画竜点睛の弁」より)などと痛烈に批判した。しかし、山内反論用いた大陸遺物年代不明瞭であり、また山内石器認定法に問題があったため、支持されることなく芹沢らの炭素14年代測定法による年代測定主流となっていった。 1970年8月29日糖尿病に伴う肺炎逝去68歳生涯閉じた

※この「縄文原体研究と炭素14年代測定法の批判」の解説は、「山内清男」の解説の一部です。
「縄文原体研究と炭素14年代測定法の批判」を含む「山内清男」の記事については、「山内清男」の概要を参照ください。

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