縄文原体研究と炭素14年代測定法の批判
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「山内清男」の記事における「縄文原体研究と炭素14年代測定法の批判」の解説
1946年、民族研究所の調査のため満蒙・北支方面で調査中、江上波夫らとともに安東で終戦を迎え、帰国が困難となった八幡一郎に代わり、山内は東京帝国大学理学部人類学教室非常勤講師になり、翌年には委託講師となった。戦後になって、山内は戦前から温めていた縄文原体の研究をまとめ始めた。そして縄文原体をはじめとする縄文の総合的研究は1962年3月31日、「日本先史土器の縄紋」として京都大学に提出された。この論文により山内は京都大学より文学博士の学位を授与され、同日、東大を停年退官。4月成城大学文芸学部教授に就任した。 一方で、山内は縄文時代の始まりについて、ヨーロッパの土器年代や石器の年代から約3,000年前としていたが、戦後になって夏島貝塚の縄文時代早期の包含層の炭素14年代測定が行なわれたところ、約9,500年前という結果がでた。これに反発した山内は「縄紋草創期の諸問題」のなかで型式が増加しすぎた縄文時代早期を縄文時代草創期と縄文時代早期に分けた上で、草創期の年代を約4,500年前と主張し、炭素14年代測定法による年代観を、「極端な年代のインフレーション」「アメリカ帝国主義の崇拝」「八紘一宇思想」(「画竜点睛の弁」より)などと痛烈に批判した。しかし、山内が反論に用いた大陸の遺物の年代が不明瞭であり、また山内の石器の認定法に問題があったため、支持されることなく、芹沢らの炭素14年代測定法による年代測定が主流となっていった。 1970年8月29日、糖尿病に伴う肺炎で逝去。68歳の生涯を閉じた。
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