統万城の建設と改姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 18:11 UTC 版)
鳳翔元年(413年)、勃勃は胡漢合わせて10万人を動員してオルドスの地(現在の陝西省楡林市靖辺県)に都統万城を築いた。その位置はオルドスの中心地であり、隴東や関中への進出に便利であった。統万の名は天下を統一し万邦を臨むという勃勃の言が元である。この都の建設は将の叱干阿利に命じた。叱干阿利は残虐な性格(錐を打って一寸以上壁に食い込めばその部分を築いた者を即座に殺して壁に埋めた)であったが、勃勃は叱干阿利を信任した。 また、勃勃は自身の姓を劉から赫連に改めた。理由は、匈奴の劉姓が漢の高祖劉邦が娘を冒頓単于に与えたことから由来しているため母方の姓であり、父方の姓を受け継ぐ慣習に倣ったものではないと考えたためである。勃勃は赫(天に)連(なる)という意味で赫連と改姓し、同族の劉姓は鉄(のように強く)伐(つ)という意味の鉄伐姓に改めさせた。414年、梁氏を天王后に立て、赫連璝を太子に立て、子を諸公に封じた。 414年、北燕の馮跋と盟を結んだ。 415年、北涼の沮渠蒙遜と盟を結んだ。 416年9月、東晋の劉裕が後秦に北伐した。この機に勃勃は滅亡寸前の後秦から西方を切り取り、安定を手中にして東晋との敵対に備えた。翌年劉裕が長安(常安)を占領し、後秦を滅ぼした。 417年冬、劉裕が子の劉義真に任せて長安を去ると、勃勃は王買徳の献策で赫連璝と王買徳を遣わして2万の軍で長安を南伐させた。劉義真は沈田子に逆戦を挑ませたが赫連璝に敗れ退いた。8月、勃勃が咸陽に拠ると、劉裕は恐れて劉義真を洛陽に鎮させた。劉裕が救援に向かわせた朱齢石と合流するために長安を去って南下した劉義真の軍も赫連璝に撃破された。勃勃はその死体の骸骨を積み上げて戦勝記念碑を作った際に(一般的で婉曲な「京観」という呼称で済ませず、敢えて)「髑髏台」と名付けたという。 長安入りを果たした勃勃は統万城に北地尹を置いて都と定め、長安には南台を置いて南都とし、翌419年に真興と改元した。この真興元年をもって勃勃は皇帝を名乗った。太子の赫連璝を大将軍・雍州牧・録南台尚書事に任命して長安に鎮させた。
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