紀元前215年:クーマエとノラとは? わかりやすく解説

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紀元前215年:クーマエとノラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:55 UTC 版)

カプア包囲戦」の記事における「紀元前215年:クーマエとノラ」の解説

春になるカルタゴ軍はカシリヌムに戻り数ヶ月わたって包囲続けた。同じ頃、ローマ独裁官であるマルクス・ユニウス・ペラはそこから遠くないテアヌム・シディシヌムに冬営していた。マルケッルス前執政官プロコンスル)としてカレスen)で編成された2個軍団率い、スエッスラに移動したまた、カンナエ残存兵は法務官アッピウス・クラウディウス・プルケル率いてシチリア渡り逆にシチリアにいた軍団ローマ戻された。 新たな2人執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムスティベリウス・センプロニウス・グラックスそれぞれ軍を率いファビウスは「奴隷兵士」と同盟国兵士25,000名を率いてペラ野営地引き継いだマルケッルスノラ防衛のためスエッスラから移動した他方、マリオ・アルフィオを指導者とするカンパニア人達はクーマエローマとの同盟から離脱させるべく、諜略を用いたグラックスはこの計画情報を得ると外交使節送り3日後にはクーマエから4.5キロメートル程の距離にあるハマスクーマエ元老院議員会ったグラックス篭城備えクーマエ食料可能な限り運び入れ貯蔵するように提案した一方で全軍ハマス移動させた。続いて行われた戦いはローマ・クーマエ連合軍の勝利終わりカンパニア側の戦死は2,000超え、マリオ・アルフィオも戦死したローマ側戦死者100人以であったグラックスは敵の野営地一掃した後、ティファタ山(en)に野営していたハンニバル急襲をかけてきた場合備えてクーマエ城壁内に撤退したハンニバル翌日クーマエ到着し攻城兵器備え付けて街を包囲したファビウスカレスカストラ防衛拠点)に駐屯していたが、占い結果が凶であるとして、ヴォルトゥヌス川を越えることは無かったグラックス反撃準備行った結局ハンニバル包囲解き、ティファタ山に引き上げた一方ファビウス罪滅ぼし儀式完了するとヴォルトゥルヌス川を渡り、軍を率いてカルタゴ側に寝返っていたクブルテリア(it)、トレブラen)アウスティクラ(おそらくは現在のサティクラ)の占領向かった。これらの都市では多くカルタゴ軍捕虜得たその後、スエッスラを見下ろすクラウディアナのカストラ向かった到着後、マルケッルスノラ向かいそこを守備するように命令したノラでは元老院ローマ側につき、一方民衆ハンニバル降伏しようとしていた。夏の間、マルケッルスヒルピニ族サムニウム人ガリア人に対して何度も襲撃行い、かってサムニウムローマ敗れた際の記憶思い出させた。このためヒルピニ族サムニウム人ハンニバル使節送り軍事的保護求めた。彼らは、マルケッルス略奪に対してカルタゴ軍自分たちを見捨てていると抗議したハンニバルは彼らを安心させ、土産持たせて返し直ち反撃を行うと約束したハンニバルはティファタ山に少数守備兵残し主力軍を率いてノラ向かったノラ近郊野営し、ブルティウムからのハンノen)の援軍合流することとした。 マルケッルスは、その後サムニウム略奪続けていたが、常に退却路は確保していた。全ての行動は、ハンニバル対しているかのように慎重かつ良く分析されたものだったカルタゴ軍接近察知すると、マルケッルス直ちに兵をノラ城壁内に撤退させた。カルタゴ軍周囲略奪始めたが、そこにローマ軍襲いかかり(第二次ノラ戦い)、優勢に戦い終えたその日戦いで5,000人のカルタゴ兵が戦死し600人が捕虜となったローマ損害は1,000以下であった当初カルタゴ好意的だったノラ市民も、ローマ見直したハンニバルノラから撤退しハンノをブルティウムに送り自身アプリアアルピen)で冬営入ったファビウスハンニバルアプリア向かったことを知ると、ノラネオポリスにあった穀物全てスエッスラの彼の野営地運び入れたその後守備兵残し、軍をカプアへ向かわせた。カンパニアでは焦土作戦実施しカプア軍が城外出て戦うように仕向けたカプア軍の兵力は6,000であり騎兵は優秀であったが、歩兵戦力としては期待できなかった。このため、まずは騎兵攻撃開始したリウィウスは、カプア勇敢な騎士ローマ騎士一騎討ち挑んだ述べている。この決闘決着がつかなかったが、一戦交えた後、その騎士城内撤退した。 このエピソードの後、ファビウスは軍を撤退させ、カプア人に種まき許し略奪も行わなかった。その後スエッスラに戻り冬営行ったマルケッルス適切な数の守備兵ノラ残し同盟都市負担をかけすぎないように残りの兵をローマ戻した。もう1人執政官であるグラックスはその軍団クマエからアプリアのルセラに動かし法務官マルクス・ヴァレリウス・レヴィヌス(en)をブリンディジウムに派遣しマケドニアピリッポス5世備えさせた。 紀元前215年終わりファビウスポッツオーリ陣地構築して守備兵を置き、その後ローマ戻った。そこで翌年執政官再選された。

※この「紀元前215年:クーマエとノラ」の解説は、「カプア包囲戦」の解説の一部です。
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