第三次計画:1805年1月とは? わかりやすく解説

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第三次計画:1805年1月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:11 UTC 版)

トラファルガー戦役」の記事における「第三次計画:1805年1月」の解説

ヨーロッパ軍事情勢は、1805年大きな変化があった。スペインフランス同盟結んだものの、ナポレオンオーストリアロシアのことでやきもきしていた、この両国はどうもイギリス交渉しているように見えたからだ。部隊大部分英仏海峡渡ってしまうと、大陸側呼び返すことが難しいことがはっきりしてきた。呼び戻すことが難しくなるからだ。もしロシアオーストリア同盟結んで、東に二次戦線開けばナポレオンはその対処大きな圧力を受けることになるだろう。ナポレオン一時的にイギリス侵攻計画保留にすることに決めた。そして、作戦発動されないため仕事のない大艦隊に、イギリスに対して紛争起こさせる新しい戦略推し進めたヴィルヌーヴとミシェシは部隊乗艦させて艦隊海へ出し西インド諸島まで航海して、そこのイギリスの植民地攻撃させた。これによりイギリスは、自国植民地を守るために、動員できる資源新たに割り当てせざるを得なくなる。ミシェシは1月11日時間通りに5隻の戦列艦率いてロシュフォール出港しトマス・グレーブス中将封鎖巧みにかわして大西洋へと抜けた。アレクサンダー・コクランがこのフランス艦隊追跡し双方とも西インド諸島へと向かったヴィルヌーヴは、1月18日にやっと、暴風の中をトゥーロンから出港した。この出港巡回していたイギリスシーホースアクティブ[要リンク修正]に気付かれ、2隻はラ・マッダレーナ上陸していたネルソンのもとへ駆けつけてこれを報告したネルソン即座に自分艦隊出港させた。天候具合、そして、フランス艦隊には陸軍部隊乗っていたことから、ヴィルヌーヴが東に向かっているとネルソン考えおそらくはイタリア沿岸か、マルタ島もしくはサルデーニャさらにはギリシャエジプト攻撃するではないか結論付けたネルソンサルデーニャ南部フランス阻止しようと南に急いだが、1月25日になってフランス艦隊現れず、見失ったではないかと気をもんで、さらに東へ押し進みギリシャ入りその後2月7日にはアレクサンドリア到着したフランス艦隊に関する情報はなく、ネルソン西方戻り2月19日マルタ着いた所で、フランス艦隊トゥーロン引き返したという知らせ受け取った。実はヴィルヌーヴは、出発から2日後帰港していた。悪天候と、それに対応できるだけの能力がない水兵と艦のおかげでやむなく引き返したのだ。2隻のイギリスフリゲート艦が、フランス艦隊置き去りにしてネルソンのもとに馳せ参じたため、艦隊誰にもつかっていなかった。これはつまり、フランス艦隊引き返していたにもかかわらずネルソンは6週間近く地中海悪天候の中を行ったり来たりしていたということだった。ネルソンいら立ちながら、封鎖再開した

※この「第三次計画:1805年1月」の解説は、「トラファルガー戦役」の解説の一部です。
「第三次計画:1805年1月」を含む「トラファルガー戦役」の記事については、「トラファルガー戦役」の概要を参照ください。

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