第三次計画:1805年1月
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「トラファルガー戦役」の記事における「第三次計画:1805年1月」の解説
ヨーロッパの軍事情勢は、1805年に大きな変化があった。スペインがフランスと同盟を結んだものの、ナポレオンはオーストリアとロシアのことでやきもきしていた、この両国はどうもイギリスと交渉しているように見えたからだ。部隊の大部分が英仏海峡を渡ってしまうと、大陸側に呼び返すことが難しいことがはっきりしてきた。呼び戻すことが難しくなるからだ。もしロシアとオーストリアが同盟を結んで、東に二次戦線を開けば、ナポレオンはその対処で大きな圧力を受けることになるだろう。ナポレオンは一時的に、イギリス侵攻計画を保留にすることに決めた。そして、作戦が発動されないため仕事のない大艦隊に、イギリスに対して紛争を起こさせる新しい戦略を推し進めた。ヴィルヌーヴとミシェシは部隊を乗艦させて艦隊を海へ出し、西インド諸島まで航海して、そこのイギリスの植民地を攻撃させた。これによりイギリスは、自国の植民地を守るために、動員できる資源を新たに割り当てせざるを得なくなる。ミシェシは1月11日、時間通りに5隻の戦列艦を率いてロシュフォールを出港し、トマス・グレーブス中将の封鎖を巧みにかわして、大西洋へと抜けた。アレクサンダー・コクランがこのフランス艦隊を追跡し、双方とも西インド諸島へと向かった。 ヴィルヌーヴは、1月18日にやっと、暴風の中をトゥーロンから出港した。この出港は巡回していたイギリス艦シーホースとアクティブ[要リンク修正]に気付かれ、2隻はラ・マッダレーナに上陸していたネルソンのもとへ駆けつけてこれを報告した。ネルソンは即座に自分の艦隊を出港させた。天候の具合、そして、フランス艦隊には陸軍部隊が乗っていたことから、ヴィルヌーヴが東に向かっているとネルソンは考え、おそらくはイタリア沿岸か、マルタ島もしくはサルデーニャ、さらにはギリシャかエジプトを攻撃するのではないかと結論付けた。ネルソンはサルデーニャ南部でフランスを阻止しようと南に急いだが、1月25日になってもフランス艦隊は現れず、見失ったのではないかと気をもんで、さらに東へと押し進み、ギリシャに入り、その後2月7日にはアレクサンドリアに到着した。フランス艦隊に関する情報はなく、ネルソンは西方へ戻り、2月19日にマルタに着いた所で、フランス艦隊がトゥーロンに引き返したという知らせを受け取った。実はヴィルヌーヴは、出発から2日後に帰港していた。悪天候と、それに対応できるだけの能力がない水兵と艦のおかげで、やむなく引き返したのだ。2隻のイギリスのフリゲート艦が、フランス艦隊を置き去りにしてネルソンのもとに馳せ参じたため、艦隊は誰にも見つかっていなかった。これはつまり、フランス艦隊が引き返していたにもかかわらず、ネルソンは6週間近くを地中海の悪天候の中を行ったり来たりしていたということだった。ネルソンはいら立ちながら、封鎖を再開した。
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