立教大学時代とその後とは? わかりやすく解説

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立教大学時代とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 18:51 UTC 版)

西郷準」の記事における「立教大学時代とその後」の解説

1935年2年先輩有村続いて立大進学予科1年次には東京六大学野球の対東大戦に投手としてデビュー、180センチ長身から速球投じ一方で本塁打放ち1対0で勝利した解説者飛田穂洲は「ボール思えばストライク投げてよし、打ってよしの大投手西郷」と激賞した得意な球はアウトコース低目を突く速球であった当時神宮球場において「西郷隆盛の孫」ということは観客知られており、打たれるたびに「どうした」などの野次浴びせられたが、本塁打放つ野次歓声変わった立教時代通算3割打者であった通算67試合出場159打数48安打打率.302)。投げてエースとしてチーム支えたが、1938年秋の対法2回戦では1試合13四死球リーグ記録残している。(通算56試合登板1520敗、防御率2.54、161奪三振卒業後は帝国生命就職したが、1942年召集され1945年戦死戦死公表では1945年5月28日フィリピンルソン島ヌエバビスカヤ州ヤンピランで戦死となっているが、『君故山に瞑れ 鹿児島県第二鹿児島中学校同窓会戦没者追悼録』(1986年甲南高校創立80周年記念事業実行委員会編)では1945年2月26日午前5時頃としており、相違する児島襄著書マニラ海軍陸戦隊』にて見習士官であった準について次の如く記している。 「中隊長お父さん分隊長お母さんというのが、帝国陸軍教育方式であってみれば、中隊長自決覚悟に殆どの分隊中隊長一緒に死ぬことを決議した第一小隊長西郷準見習士官は、西郷隆盛外孫といわれ、応召前は立教大学投手として、その豪球うたわれていた。戦闘開始後常に腰に手榴弾十箇を吊るし、百米迄は投げられると胸さすっていた。『俺は出るぞ。一球も投げず死んだあっちゃあ、母校先輩後輩申訳ないからな。』そう宣言する西郷見習士官に、然し同調の声を挙げたのは、ほんの二、三人だった。」 東京ドーム内の野球体育博物館にある戦没野球人モニュメントに名前がある。

※この「立教大学時代とその後」の解説は、「西郷準」の解説の一部です。
「立教大学時代とその後」を含む「西郷準」の記事については、「西郷準」の概要を参照ください。

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