立教大学時代とその後
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1935年、2年先輩の有村に続いて立大へ進学、予科1年次には東京六大学野球の対東大戦に投手としてデビュー、180センチの長身から速球を投じ、一方では本塁打を放ち1対0で勝利した。解説者の飛田穂洲は「ボールと思えばストライク、投げてよし、打ってよしの大投手西郷」と激賞した。得意な球はアウトコース低目を突く速球であった。当時神宮球場において「西郷隆盛の孫」ということは観客に知られており、打たれるたびに「犬はどうした」などの野次を浴びせられたが、本塁打を放つと野次は歓声に変わった。立教時代は通算3割打者であった(通算67試合出場、159打数48安打、打率.302)。投げてもエースとしてチームを支えたが、1938年秋の対法大2回戦では1試合13四死球のリーグ記録を残している。(通算56試合登板、15勝20敗、防御率2.54、161奪三振) 卒業後は帝国生命に就職したが、1942年に召集され1945年戦死。戦死公表では1945年5月28日、フィリピンのルソン島ヌエバビスカヤ州ヤンピランで戦死となっているが、『君故山に瞑れ 鹿児島県立第二鹿児島中学校同窓会戦没者追悼録』(1986年、甲南高校創立80周年記念事業実行委員会編)では1945年2月26日午前5時頃としており、相違する。児島襄は著書『マニラ海軍陸戦隊』にて見習士官であった準について次の如く記している。 「中隊長はお父さん、分隊長はお母さんというのが、帝国陸軍の教育方式であってみれば、中隊長自決の覚悟に殆どの分隊は中隊長と一緒に死ぬことを決議した。第一小隊長西郷準見習士官は、西郷隆盛の外孫といわれ、応召前は立教大学の投手として、その豪球をうたわれていた。戦闘開始後常に腰に手榴弾十箇を吊るし、百米迄は投げられると胸をさすっていた。『俺は出るぞ。一球も投げずに死んだとあっちゃあ、母校の先輩・後輩に申訳ないからな。』そう宣言する西郷見習士官に、然し同調の声を挙げたのは、ほんの二、三人だった。」 東京ドーム内の野球体育博物館にある戦没野球人モニュメントに名前がある。
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