社会主義圏の崩壊と金日成の死去
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「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事における「社会主義圏の崩壊と金日成の死去」の解説
6カ年計画と同じく、第二次7カ年計画終了後の1985年と1986年には新たな経済計画の発表はなく、経済の「調整期間」とされた。これは6カ年計画終了後と同じく、第二次7カ年計画時の経済混乱を調整するために設けられた調整期間と考えられている。 1987年になって、第三次7カ年計画が開始された。この経済計画は初年度から成果について全く発表されず、計画の遂行が当初から困難であったと考えられている。その上1989年に 平壌で行われた第13回世界青年学生祭典では、1988年に開催されたソウルオリンピックに対抗するために、北朝鮮当局は多額の費用と資材を投入して祭典関連施設の建設を進め、また祭典に世界中から多くの人々を招いた。この巨額の投資は北朝鮮経済に悪影響を及ぼした。 北朝鮮経済に深刻な打撃を与えたのが、1989年の東欧社会主義圏の崩壊とそれに続く北朝鮮への経済援助の激減であった。特にソ連との貿易では、1990年11月にこれまでのバーター取引から国際市場価格に基づく国際通貨による決済に変更された。東欧の旧社会主義圏や中国との貿易も次々と国際通貨による決済へと変更され、バーター取引では輸入の一部は事実上援助と同じ扱いとなっていたが、深刻な外貨不足に悩む北朝鮮は輸入を大きく減らさざるを得なくなった。 その結果、これまで貿易額の半分以上を占めていた対ソ連貿易は、ソ連が崩壊する1991年には前年比の約七分の一にまで減少し、東欧諸国からの援助も途絶え、北朝鮮経済は危機を迎えることになった。韓国銀行の推定によれば、第三次7カ年計画中の経済成長率は-2.74パーセントとマイナス成長へと落ち込み、1993年12月、北朝鮮は第三次7カ年計画は達成できなかったことを公式に認めた。第三次7カ年計画の失敗後、現在に至るまで新たな経済計画は立てられていない。 北朝鮮をめぐる情勢で、この頃から大きな問題となったのが核問題である。北朝鮮の核開発の疑惑は国際社会の大きな疑念を招き、国際原子力機関 (IAEA) の核査察を受けるように国際的な圧力が加えられた。しかし北朝鮮は容易に査察に応じようとはせず、1994年6月にはIAEAからの脱退を宣言するに至った。その後北朝鮮は独自の核開発を継続し、2006年と2009年には地下核実験を強行するに至った。核問題は北朝鮮に対する国際的信用を失墜させることとなり、国際連合安全保障理事会によって経済制裁決議がなされるなど、経済問題の悪化につながることになった。 北朝鮮当局としても厳しい経済難に対する対策を全く立てなかったわけではない。1991年には北朝鮮の北東部にあって、中国とロシア国境近くの羅津市と先鋒市一帯を自由経済貿易地区に指定し、経済特区の設定によって外資の導入を図った。また1993年12月に行われた朝鮮労働党中央委員会総会では、1994年から1996年を経済再建のための調整期間とすることとし、農業、軽工業、貿易の発展を中心に据えた経済政策を進めることが決定された。しかし、1994年7月8日に金日成が死亡し、その後北朝鮮の経済状態は極度に悪化していくことになる。
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