知事職と後世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:11 UTC 版)
「ウィリアム・S・テイラー」の記事における「知事職と後世」の解説
知事選挙でテイラーは2,383 票差でゴーベルを抑えた。民主党が支配する州議会はこの選挙結果に対して異議申し立てを行った。ゴーベルの選挙法があったので、3人の委員で構成される選挙管理委員会が選挙の勝者を認証することになった。委員のうちの2人は公然とゴーベルのために選挙運動を行い、3人全員がその委員指名をゴーベルに負っていたが、委員会の票決の結果は2対1という驚くべき結果でテイラーの当選を追認した。委員会の意見は、ゴーベルの選挙法では選挙違反の証拠を調べたり証言を聞いたりする権限を与えられていないというものだったが、その言葉遣いによれば、そうする権限が与えられるならばテイラーへの票も無効化できることを示唆していた。テイラーは1899年12月12日に宣誓し知事に就任した。それから数日後に州議会がフランクフォートで招集された。議会は論議のある選挙結果について判断する権限があると主張し、選挙結果を検査するための党派的委員会を結成したが、その構成は民主党員10人、共和党員1人だった。 議会の民主党が選挙結果を「盗む」ことを怖れ、武装した男達が州内の様々な地域、主に東ケンタッキーからフランクフォートにやってきた。その多くが共和党員だった。1月30日、州会議事堂に入ろうとしていたゴーベルが銃で撃たれた。その微妙な状況にテイラーは緊急状態を宣言し、州兵を招集し、州都ではなく共和党員の優勢なロンドンでの議会開催を要求した。民主党はその呼びかけを受け入れず、その変わりに民主党の優勢なルイビルで議会を開いた。そこでは、ゴーベルを選挙の当選者とするに十分な数のテイラー票を無効とする審査委員会の報告を認証した。その直後にゴーベルは州知事に就任したが、数日して先に受けた傷がもとでゴーベルは死んだ。 この選挙で最も議論の対象になっていた人物であるゴーベルが死んだことで、民主党と共和党が合同で会して、和平をもたらす提案書を起草した。その提案の条件に従い、テイラーとその副知事ジョン・マーシャルはその役職を降り、この選挙とゴーベル暗殺を取り巻く出来事から訴追免除を認められた。ゴーベルの選挙法は撤廃され、州兵はフランクフォートで解散された。両陣営の著名指導者が合意書に署名したが、1900年2月10日、テイラーは署名しないと公表した。2月19日に議会が招集され、選挙結果の判断を裁判所に委ねることに合意した。 3月10日、ジェファーソン郡の巡回裁判所が、ゴーベルを州知事であるとした州議会の行動を支持した。この事件はケンタッキー州の最終審であるケンタッキー州控訴裁判所に控訴された。4月6日、控訴裁判所は6対1の評決で、テイラーを合法的に辞職させた。テイラーはアメリカ合衆国最高裁判所に訴え、5月21日、最高裁判所はこの事件について審問を却下した。ケンタッキー州出身の判事ジョン・マーシャル・ハーランがこの却下に異議を唱えた。テイラーの法的選択肢が無くなったことで、ゴーベルの副知事J・C・W・ベッカムが州知事に昇格した。テイラーはその短い州知事であった期間に幾人か役人を指名し、幾つか恩赦を発行したこと以外ほとんど何もできなかった。 テイラーはゴーベル暗殺に関して従犯を問われた。テイラーはインディアナポリスに逃亡し、インディアナ州知事がテイラーの引き渡しを拒んだ。1901年に1度テイラーを力で拉致する試みがあったが失敗した。1909年に共和党知事オーガスタス・E・ウィルソンから恩赦を出されたが、その後もケンタッキー州に戻ることはほとんど無かった。 テイラーは選挙に関する訴訟費用で私財を使い果たしており、インディアナポリスでは保険会社の役員となり、法律実務を行って生活した。インディアナ州に来た直後に妻が死んでいた。1912年に短期間ケンタッキー州に戻り、ノラ・A・マイアーズと再婚した。夫妻はインディアナポリスに戻り、1人の息子をもうけた。テイラーは1928年8月2日にインディアナポリスで心臓病で死去した。同市のクラウンヒル墓地に埋葬された。
※この「知事職と後世」の解説は、「ウィリアム・S・テイラー」の解説の一部です。
「知事職と後世」を含む「ウィリアム・S・テイラー」の記事については、「ウィリアム・S・テイラー」の概要を参照ください。
- 知事職と後世のページへのリンク