皇道派陸軍幹部とは? わかりやすく解説

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皇道派陸軍幹部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:22 UTC 版)

二・二六事件」の記事における「皇道派陸軍幹部」の解説

事件当時軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木真崎阿部の4名は3月10日付で予備役編入された。侍従武官長本庄繁女婿山口一太郎大尉事件関与しており、事件当時反乱起こした青年将校同情的な姿勢をとって昭和天皇思い沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し4月予備役となった陸軍大臣であった川島3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将7月に、それぞれ不手際責任を負わされる形で予備役となった。 やはり皇道派主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将歩兵40旅団長転出させられ以後1940年昭和15年)に陸軍航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。 また、これらの引退した陸軍上層部陸軍大臣となって再び陸軍影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制復活することになった。この制度政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣就任して再度政治不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍後任陸相推薦しないという形で内閣命運を握ることになってしまった。 事件当時関東軍憲兵司令官だった東條英機は、永田の仇打ちとばかり当時満州にいた皇道派軍人根こそぎ逮捕して獄舎送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した。 当時陸軍人事局であった後宮淳中将から、事後処理のため近衛歩兵第2連隊付から参謀本部庶務課高級部員課長代理)に抜擢され富永恭次は、難航する思われ皇道派将校からの予備役編入願を手際よく集めてきたため、大きな混乱もなく多数皇道派将校予備役行きにすることができて、富永実務能力への評価高まった関東軍東條も目にかけてきた富永優秀な仕事ぶりの噂を聞く喜び相沢事件皇道派将校相沢三郎殺害された、東條にとっての恩人であった永田鉄山の仇をとってくれたとさらに富永高く評価することとなり、のちに富永が「東條腰巾着」などと揶揄されるほど重用されきっかけともなった一方事件対す陸軍責任めぐって貴族院で「それでは叛軍参謀本部陸軍省占領されて、たとえ二日でも三日でも職務停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任取らず裁判にもかけなかった。

※この「皇道派陸軍幹部」の解説は、「二・二六事件」の解説の一部です。
「皇道派陸軍幹部」を含む「二・二六事件」の記事については、「二・二六事件」の概要を参照ください。

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