皇道派陸軍幹部
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事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。 やはり皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後1940年(昭和15年)に陸軍航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。 また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。 事件当時関東軍憲兵司令官だった東條英機は、永田の仇打ちとばかり、当時満州にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送り、「これで少しは胸もすいた」と述懐した。 当時の陸軍人事局長であった後宮淳中将から、事後処理のため近衛歩兵第2連隊付から参謀本部庶務課高級部員(課長代理)に抜擢された富永恭次は、難航すると思われた皇道派将校からの予備役編入願を手際よく集めてきたため、大きな混乱もなく多数の皇道派将校を予備役行きにすることができて、富永の実務能力への評価が高まった。関東軍の東條も目にかけてきた富永の優秀な仕事ぶりの噂を聞くと喜び、相沢事件で皇道派の将校相沢三郎に殺害された、東條にとっての恩人であった永田鉄山の仇をとってくれたとさらに富永を高く評価することとなり、のちに富永が「東條の腰巾着」などと揶揄されるほど重用されるきっかけともなった。 一方、事件に対する陸軍の責任をめぐっては貴族院で「それでは叛軍に参謀本部や陸軍省が占領されて、たとえ二日でも三日でも職務を停止させられた、その責任はだれが負うか」と追及されたが、結局うやむやにして、だれも責任を取らず、裁判にもかけなかった。
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