発祥と沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/09 00:07 UTC 版)
白鶴門に伝わる開祖伝説によると、清朝康熙年間(1662年 - 1722年)に生まれた福建少林寺の僧で少林十八羅漢拳の使い手である方慧石(方種とも)の娘、方七娘によって創作されたとされる。方七娘は16歳の折、鶴(白鶴仙人とも)の動きに触発され、父親から習得した少林十八羅漢拳に鶴の形意、姑娘歩と言われる歩法(纏足の女性が歩くような歩法)を合わせて白鶴拳を編み出したといわれる(沖縄に伝わった白鶴拳の古文書「沖縄伝武備志」によれば「三年にして学成る」とある。)。その後方七娘は、白蓮寺を教練所として白鶴拳の普及を始めたという。 ある日、白蓮寺に顔起誕と曽四という拳士が訪れた。七娘と顔たちは拳法を巡る口論の末、七娘と顔が試合をすることになった。しかし顔の技量は七娘に及ばす、敗れた顔の遺言により曽四は七娘の門下生となったという。後に七娘と曽四は夫婦となり、10数年後に曽四は白鶴拳の全伝を得て、全国に白鶴拳を広めるための旅に出た。その後、清朝によって白蓮寺を追われた七娘と曽四は再会を果たし、福建省東北部の詠春で白鶴拳を広めたという。その後、七娘は曽四に白鶴拳二代目宗主を譲った。 詠春で七娘から白鶴拳全伝を受けたトゥルーコウ(ルールーコウ、劉龍公?)は、さらに拳法を磨き詠春白鶴拳を完成した。その後、トゥルーコウによって白鶴拳は福建省全土に伝わり、いくつかの門派に分かれた。現在ではこれら門派を福州鶴拳と総称している。なお、台湾には国共内戦の時代から多数の移民があり、武術に長じた人々も多数移り住んだため南北各派の中国武術が伝わっている。
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