発病後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 19:50 UTC 版)
ガン発病後は、死を覚悟した瞬間から、死までの時間が大切なものに思え、できることを極力やっておこう、意識が生命である間は人間としての自由を極力遂行しようと考えたが、それは岩井の考える”死の彼方の世界“(岩井はそれを「空無の世界」と呼んだ)において、さらに完全な自由が得られると信じた。人間としての自由は厳しく苦しいものであるが、それを遂行しようとするところに人間の尊厳があると考えた。死までのわずかな時間に、この人間としての自由をどこまで遂行していけるのかにそれがかかっていると考え、腫瘍の手術後の1985年夏頃、葡萄膜炎で失明するが、その中で『色と形の深層心理』と『精神療法入門』他3冊の著書をすべて口述筆記で残した。腫瘍による神経圧迫により、下半身が全く動かず、知覚ができない状態であった。岩井はその状態の中でただ便々と苦痛を我慢するだけの生活より、苦痛と闘いながら何らかの形で意味のある一日を送り満足を得ることを”人間としての選択の自由”と表現した。 岩井は失明状態の中、松岡正剛にインタビュー形式での言葉の記録を依頼する。松岡は躊躇したものの岩井の体調の急変と失明状態であったことなどを考慮し、岩井の「最後の言葉」の記録を引き受ける。岩井は『森田療法』のゲラ校正の進行中に亡くなるが、その序文も松岡の手によるものである。それがNHKの深堀一郎ディレクターの目に止まり、岩井の番組の制作が実現する。番組は大きな反響を呼び、それを見た講談社が告白テープを本にしたいと申し出てきたが、それが『生と死の境界線』(講談社)であった。心身ともにダメージを受けていた松岡は着手するまでに、丸1年かかっており、その後もよほどの高感度のコンディション時か、よほど落ちこんでいないと開けないほど松岡にとって重い内容となった。
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