用途と歴史
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2007年時点で確認されている最古の馬門石の利用は、熊本県上天草市にある5世紀前半頃築造と思われる長砂連古墳の石障である。これ以降6世紀中頃まで宇土半島周辺で石障系横穴式古墳の壁体や羨道部で用いられる。5世紀中頃に馬門石製舟形石棺が見られるようになり、5世紀終わり頃には中国地方を経て近畿地方に広がり6世紀前半まで近畿有力者の石棺で用いられる。このようにほぼ同時期に宇土周辺と中国・近畿地方で馬門石が使用されているが、阿蘇ピンク石は九州では見られず、中国・近畿地方の石棺に限定して用いられている。この事から古墳時代ではヤマト王権が阿蘇ピンク石を独占して使用していたと考えられる。 四天王寺にある熊野権現礼拝石は阿蘇ピンク石である。礼拝石は発掘状況から平安時代末期以降に設置されたと考えられるが、石材は再利用の可能性もありその経緯は不明である。 馬門石は中世に五輪塔や宝篋印塔などの石塔として用いられ、近世以降には大量消費が始まり、轟泉水道の石管、井戸枠、鳥居、水盤、石橋などに利用される。また江戸後期には肥後細川藩の石場見締役や赤石場見締役などの役人が配置された記録があり、いわゆる御用石であったと考えられる。特に細川興文は蕉夢庵の燈籠や台所流しなどに使用する馬門石について、色まで指示していた記録が残っている。 1950年代からはコンクリートの普及でほとんど使用されなくなっているが、近世の水道管や石橋などには現役で使用されているものもある。
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用途と歴史
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戦法としては古くからあり、『孫子』の兵法に記載されている。 大きな成功例としては、第二次ポエニ戦争における「トラシメネス湖の待ち伏せ」がある。この戦いではカルタゴのハンニバル将軍が伏兵を巧みに使ってローマ軍を撃退している。 日本でも、一種の奇襲戦法として広く用いられた。『日本書紀』に記された例では、雄略天皇8年(464年)、任那日本府の軍が高句麗兵に包囲された新羅の城へ救援に赴いた際、伏兵を用いて高句麗軍を破った。
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