産科医として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 07:26 UTC 版)
玄悦はほぼ独学で産科術を学び取った。さらに臨床の体験を生かして出産時の回生術やさまざまな施術を考案したが、最大の功績は正常胎位の発見にある。古来、胎児は子宮内では頭を上に臀部を下にして位置しているとされてきた。そして陣痛が始まると一回転して頭部を下に生まれてくると考えられていた。しかし、賀川玄悦は長年の臨床体験から「上臀下首」、すなわち妊娠中期から胎児の頭が下になっていると考えた。これはスコットランド出身の産科医ウイリアム・スメリー(w:William Smellie1697年~1763年)の発表(1754年)とほぼ同時期であった。玄悦は自身の産科医療の体験から生命の尊さを訴え、門下生に対してできる限り堕胎を行わないよう指導した。また、産科器具の考案にも注力し、鉄製の産科鉗子を作り出した。これは現代の産婦人科医の手術道具の先鞭となるものである。玄悦の医術を継承した者は、幕末までに2,000人余を数えるが、特に有名なものとして徳川家斉の嫡子を取り上げた片倉鶴陵や富山藩の藩医をつとめた橘玄格などがいる。門下生たちは全国に賀川流産科術を伝え、江戸期以降の日本の産科医療の土台を築いた。著書に『産論』全四巻(1765年(明和2年))、『子玄子産論』、『産科図説』などがある。 彦根市には彼の名前を冠した賀川玄悦記念彦根美術館がある。
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