琉球から清への遣使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「琉球から清への遣使」の解説
琉球から清への遣使は、前述のように決められた間隔で派遣される進貢使の他、新皇帝の即位を慶賀することを目的とした慶賀使、冊封など中国皇帝から特別な恩恵を受けた後に派遣する謝恩使などがある。進貢使、慶賀使(進香使を含む)、謝恩使は正使らが上京して皇帝に拝謁することが出来たが、後の使節は上京を許されることはなく、福州で任務を遂行した。 琉球王国の役人の業務として国内の出張である「地下旅」、薩摩、江戸へ出向く「大和旅」、そして中国に行く「唐旅」という三種の旅役があったが、中でも唐旅が最も高い勲功とされ、通常、地下旅、大和旅を勤め上げた後に唐旅役の「渡唐役人」に任じられた。また渡唐役人以外の船長以下乗組員もまた、一定以上の乗船経験を積んだ上で中国へ向かう船の乗組員として採用されるシステムであった。 進貢使の正使は清代の1668年以降、琉球王国の日常政務を取り仕切る評定所下御座を構成する15名のメンバーの一人、御鎖之側が耳目官として務めることが定着した。慶賀使は進貢使よりも地位が高い国王の舅、王舅が正使となるのが通例であった。謝恩使については、冊封に対する謝恩の場合は三司官を務める王舅という他の正使よりも地位が高い人物が正使となったが、その他の謝恩の場合は進貢使の兼任が一般的で、その場合には正使を耳目官よりも地位が高い紫巾官とした。 明代の1475年、進貢船の定員は150名までとする規定が設けられ、その後1688年の尚貞の要請を受け、康熙帝は進貢船の定員を200名に増加することを認めた。200名への定員増加以降、2隻で編成された進貢船の一号船には約120名、二号船には約80名が乗船したが、その人員の配分は進貢時によって若干の違いがあった。また接貢船の乗員は約80名であり、1861年の接貢船の乗船名簿によれば乗船者は89名であった。 進貢船の那覇港出発前、そして帰還時にはそれぞれ上表渡、勅書迎という儀式が執り行われた。上表渡とは国王以下が参列する中で、琉球国王から中国皇帝への書状、「上表文」を進貢使に渡す儀式であり、首里城で行われた。上表文の内容はおおむね皇帝を称え、進貢を行えることについて感謝したものであった。勅書迎は那覇港に到着した皇帝の勅書、回賜品をまず輿に乗せて首里城まで運び、やはり首里城で国王と臣下が列席する中で勅書、回賜品を迎える儀式であった。琉球にとって朝貢、冊封によって中国との関係を維持していることは国家体制の保障となっており、安定して進貢が継続されること、そして皇帝からの勅書、回賜品を迎えることには大きな意味があった。
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