琉球の朝貢と冊封の歴史とは? わかりやすく解説

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琉球の朝貢と冊封の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/02 22:41 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史(りゅうきゅうのちょうこうとさくほうのれきし)では、三山時代の1372年、洪武帝の招諭を受けて行われた中山王察度の入貢、1402年の武寧の冊封から、1866年の尚泰の冊封、そして1875年に明治政府によって清への進貢が禁止されるまでの歴史を中心に記述する。なお明治天皇による尚泰の琉球藩王冊封、そして進貢禁止後の琉球と清の朝貢、冊封復活への動きについても同記事内で紹介する。


注釈

  1. ^ 波平(2014)p.25で説明されているように、中国の王朝中心の国際秩序についてはこれまで「冊封体制」、「朝貢体制」などと呼ばれてきたが、例えば李(2000)pp.28-32、pp.42-48は、冊封は中国の王朝と諸外国との関係性の一部でしかないことを指摘しており、壇上(2013)pp.304-308では、中国王朝と朝鮮、琉球、ベトナムなど冊封国との関係性もそれぞれ違いが見られ、「冊封体制論」等の概念を先行させて中国と周辺諸国との関係性を判断する危険性を指摘している等、「冊封体制」等の用語ひとつで説明できる関係性ではないとされているため、周辺諸国との関係等の用語を用いることにする。
  2. ^ 檀上(2016)pp.299-304では武寧が初の冊封ではなく、先代の察渡も冊封されていたと主張している。
  3. ^ なお、原田(1993)p.9-12にあるように、18世紀半ばの尚穆以後、皮弁冠は十二縫七采玉で玉の総数は266個と、七種の玉を266個ちりばめたものとなった。これは明の皇帝の十二縫五采玉十二、つまり五種類の玉を十二列十二個ずつちりばめた皮弁冠よりも遥かに豪華なものになっており、詳細に見ると明代との変化はあった。
  4. ^ 豊見山(2004)pp.288-290では、先島諸島などから王府が「朝貢」を受ける、朝貢、支配の多重構造が形成されていたと指摘している。
  5. ^ 上原(2010)p.313によれば、琉球側は朝鮮出兵に際し兵糧米の供出を行ったことを明に説明しておらず、明側も特に問題視した形跡は無い。
  6. ^ 真栄平(1985)p.42によれば、福州陥落という情勢下で実施された薩摩藩による八重山諸島の警備兵派遣は、翌年には撤収されたとしている。これは情勢が落ち着いたと判断されたためと推察される。
  7. ^ 胡(2018)によれば、この時、清側に引き渡された明から下賜された勅書のうち、1629年に作成された崇禎帝が尚豊を琉球国中山王に封じる詔書が旅順博物館に現存している。なお尚豊の冊封は詔書が作成された4年後の1633年に行われている。
  8. ^ 西里(2010)p.33、渡辺(2012)p.106によれば、1650年に慶賀使を派遣したが、海難事故で行方不明となったとの琉球側の弁明は偽りであり、実際には慶賀使を派遣していなかったと見られている。
  9. ^ 渡辺(2012)pp.179-186によれば、薩摩側に内密で、琉球が漂着民相手に交易活動を行っていた場合があることが確認されている。
  10. ^ 夫馬(1999)p.ⅴによれば、例えば1756年に琉球に派遣された冊封使の周煌は、琉球で手に取った四書訓点が付けられていたのを見つけ、この書物を福州で入手したとの琉球側の嘘を見抜いている
  11. ^ 伍(2016)p.2によれば、柔遠駅は書経、舜典の「遠来の客を優遇し、朝廷が誠意を持って懐柔の意思を示す」という意味の「柔遠有邇」からその名を採ったとする。
  12. ^ 深澤(1999)pp.23-28では、「存留通事」がいわば機密費を使っていた実態を紹介している。
  13. ^ 深澤(2005)p.477によれば、琉球館内の天后宮で1692年に行われた改修費用は、琉球館駐在の琉球王国官吏による支出で賄われた。
  14. ^ 呂(2004)p.90によれば、1719年の冊封使以降、おそらく1800年の冊封使からは売れ残り商品を琉球王府が買い上げるシステムが確立したとする。
  15. ^ 鄒、高(1999)p.124、夫馬(1999)p.123によれば、1800年に行われた尚穆の冊封時は、前年に乾隆帝が没したため7回の宴席とも行われなかった。
  16. ^ 実際問題として約500名の冊封使一行が数カ月間琉球に滞在する間には、どうしてもトラブルは発生してしまう。麻生(2013)pp.417-418には、宝島人(琉球側が名称を詐称していた日本人のこと)との交易を求めたり、遊女を探すために遠出を試み、琉球当局とトラブルになったケースが紹介されている。
  17. ^ 胡(2002)によれば、清の皇帝から琉球国王に対し、康熙帝から同治帝までの9回(乾隆帝と道光帝は2回、他の皇帝は1回)、扁額を下賜したとしている。
  18. ^ 鎌田、伊藤(2016)p.12によれば、幕府としては薩摩藩を通じて琉球を間接統治している立場にあり、また琉球自体が日中両属状態にある現状からの判断であるとする。
  19. ^ 上原(2016)pp.426-434では、島津斉彬による琉球の対外貿易本格解禁政策の影響を受けて、渡唐役人たちがこれまでよりも積極的に清での商品仕入れ、販売に乗り出すようになり、琉球王府の統制が困難となっている事例を紹介している。
  20. ^ 西里(2005)p.640によれば、銅を福建側に引き渡した後もトラブルは続いた。福建側は銅の代金を支払うとしたが、琉球側は贈与であるとして代金の受け取りを拒否したのである。これは朝貢貿易以外の貿易の開始をもくろむ福建側に対し、琉球側は朝貢貿易以外の貿易を嫌ったためであると考えられる。結局、福建側から押し付けられるように代金の受け取りを行うことになった。
  21. ^ 伊藤(2016)p.174によれば、清代の冊封において対象者が元服前で元服を待って冊封を行わざるを得なかったケースは、尚泰以外は無かった。
  22. ^ マルコ(2017)pp.218-219によれば、日本側の主張はお雇い外国人の一人として日本の近代法体系の整備に活躍した、ボアソナードのアドバイスに基づくものとしている。

出典

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