中国側からの派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「中国側からの派遣」の解説
中国周辺の諸国の君主が、中国の徳化を慕って貢物を携えた使者を派遣するのに対して中国皇帝が恩恵を与えるという建前上、周辺諸国から中国へはしばしば使節が派遣されたが、中国から周辺諸国へはめったに使節は派遣されなかった。中国から周辺諸国に使節が派遣される場合で最も多かったのが、周辺諸国の君主を冊封する冊封使であった。 琉球も1404年の中山王武寧から1866年の尚泰の冊封まで、明代17回、清代8回の合計25回、冊封使が送られている。冊封使以外にはそもそも琉球が朝貢を開始するきっかけとなった1372年の洪武帝による招諭のように、その時々の必要性に応じて使節が派遣されることもあった。 また中国側からの使節派遣とはやや性格が異なるが、1746年、琉球からの漂着民を清側の手によって琉球に送還する方針を立てた。それまでは琉球からの使節の船に便乗して帰国していたが、琉球使節の帰国まで長期間待たせるのは良くないと清側が判断したためである。しかしこの方針は琉球側からの猛反発を受けて撤回される。琉球側としては17世紀半ば以降、後述のように中国側からの使節来訪時には日本、特に薩摩藩との関係性を徹底的に隠蔽していたが、琉球からの漂流民を清側が送還することになれば、あらかじめその来訪が分かる冊封使とは異なり、不定期に清から送還されることになるため、隠蔽が困難になると判断した。そしてもう一つ、冊封使来琉時には一行が持ち込んだ中国産品の貿易が行われていて、琉球側はその貿易の損出埋め合わせに苦しめられていた。その上漂流民送還を清側が行うことになれば、送還に携わる清側の人員が琉球で荷物を持ち込み商売を行い、更に琉球を苦しめることになるのを危惧したのである。
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