現存する教育機関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/11 07:38 UTC 版)
「ジョンズ・ホプキンズ」の記事における「現存する教育機関」の解説
ホプキンズが1873年3月に出した指示書に従い、ジョンズ・ホプキンズ病院に併設させる形で、ジョンズ・ホプキンズ看護学校(英語版)が1889年に開校した。設立母体は病院設立委員会で、開設に当たってフローレンス・ナイチンゲールが病身を押して相談に乗った。看護学校と病院の開設は、1875年の孤児院開設、1876年の大学開設から10年近く遅れて行われた。ホプキンズの指示を書いた手紙には、以下に示すような彼の病院設立に向けた理念が明確に示されている。 「年齢・性別・肌の色」にとらわれず「全ての人種」の貧者に支援の手を差し伸べること 裕福な患者はサービスに代金を支払い、それを貧しい人々の医療支援の補助金とすること 病院はアフリカ系アメリカ人の子ども向け孤児院の運営母体となり、孤児院は病院設立のために作られた基金の半額から、年間25,000ドル(2018年の52.3万ドルに相当)の支援を受ける 病院と孤児院は、それぞれ400人の患者・子どもを受け入れられること 病院は大学の一部となること 信仰はよいが、宗派主義は病院経営に影響を与えないこと また指示書には、看護学校の設立に向け、「わたしは、病院と連携した、女性看護師向けの訓練学校を作ってやりたい。[学校の]設立は、病棟の病人へ有能な女性による看護を担保することへ繋がるだろうし、訓練され経験豊富な看護師を輩出することは、社会全体にとって益となるのだ」(英: "I desire you to establish, in connection with the hospital, a training school for female nurses. This provision will secure the services of women competent to care for those sick in the hospital wards, and will enable you to benefit the whole community by supplying it with a class of trained and experienced nurses.")とも書かれていた。 ギルマンの任期終了までに、ジョンズ・ホプキンズ大学、同出版局、同病院・看護学校、同医学部、同黒人子ども孤児院が完成した(孤児院のみが信託者による設立)。ジョンズ・ホプキンズ財団の活動初期には、「性別」と「肌の色」は大きな問題であった。看護学校設立後、医学部は設立の資金難に喘いでいたが、ある婦人団体が女子の医学部入学を条件として、設立に十分な額の支援を申し出た。ケリー・ミラー(英語版)とフレデリック・スコット(英: Frederick Scott)はそれぞれ、アフリカ系の出自を持つ人物として初めて、ジョンズ・ホプキンズ大学の大学院・大学に入学した人物である。スコットはその後同大学を卒業した初めてのアフリカ系生徒となり、ロバート・ギャンブル(英: Robert Gamble)やケニア出身のジェームズ・ナブワング(英: James Nabwangu)と共に、アフリカ系として初めて同大学から医学部に進んで卒業した生徒となった(1967年)。1970年には、5人の生徒が、アフリカ系アメリカ人の女子生徒として初めて、ジョンズ・ホプキンズ大学の在校生名簿に名を刻んだ。
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