雄略天皇
獲加多支鹵大王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:46 UTC 版)
詳細は「稲荷山古墳出土鉄剣」を参照 稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。 埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣に「辛亥の年七月中、記す」から始まる金象嵌銘があることが1978年に確認された。金象嵌銘には「獲加多支鹵大王」という当時の大王の名も記されており、この「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))は、『古事記』『日本書紀』に記された雄略天皇の実名である「ワカタケル」(古事記「大長谷若建」、日本書紀「大泊瀬幼武」)と酷似している。 また、1873年には熊本県の江田船山古墳から大王の名が記された銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土していたが、保存状態が悪く大王名の部分が相当欠落していた。その銘文はかつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯別」(タジヒノミズハワケ)の実名を持つ18代反正天皇(『書紀』による。『古事記』では「水歯別」)にあてる説が有力であったが、上記の稲荷山古墳の鉄剣が発見されて以降は「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、これを「獲加多支鹵大王」に当てる説が有力となっている。 以上のように、雄略天皇の名が刻まれた鉄刀・鉄剣が熊本と埼玉で見つかったことから、5世紀後半にはすでにヤマト王権の支配圏が九州から関東までの広範囲に及んでいたことが推測できる。また、それぞれの銘文には「杖刀人」(武官か)「典曹人」(文官か)という当時の官職名が記されており、『書紀』の雄略紀にも「○人」と称する官名が集中的に現れることから、王権に奉仕する集団をその職掌によって分類した後の部民制に通ずる人制の萌芽がこの時代にすでに現れていたことが窺える。
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