熱原法難とは? わかりやすく解説

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熱原法難

読み方:アツハラホウナン(atsuharahounan)

弘安2年駿河国富士郡熱原の日蓮門弟加えられ弾圧


熱原法難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)

日蓮」の記事における「熱原法難」の解説

日蓮身延入山後、弟子日興中心に富士方面活発な弘教展開され結果日興供僧をしていた四十九院岩本実相寺龍泉寺などの天台宗寺院住僧近隣農民らが改宗し日蓮門下となる状況生まれていた。その動きに対して各寺院住職らは反発して日蓮門下となった住僧らを追放するなど対抗したため、日蓮門下天台宗側との抗争生じた天台宗側は北条得宗家と結びついており、幕府権力後ろ盾として日蓮門下圧力加えた抗争頂点達したのは弘安2年1279年9月21日である。熱原竜泉寺院主代・行智は、稲刈り多数農民信徒集まっていた機会をとらえ、武装した武士の騎馬集団用いて20人の農民信徒を捕えた。信徒鎌倉連行され北条得宗家家政つかさどる内管領ないかんれい)を兼務していた平左衛門尉頼綱取り調べ受けた日蓮はこの事件日蓮門下全体にわたる重大事件ととらえ、鎌倉中心的信徒である四条金吾書簡送り拘束されている農民信徒励ましていくよう指示している。日蓮農民信徒厳し取り調べにも屈することなく信仰貫いている事実知り自身生涯目的(「出世の本懐」)を遂げた述べている。なお、行智側から農民信徒告発する訴状出されたので、日蓮はそれに対す陳状答弁書)の文案作成して法廷闘争備えた。同申状日蓮自身について法主聖人」と述べている。 捕えられた20人の信徒一人法華経信仰捨てなかったため、平頼綱尋問打ち切り10月15日、3名を斬首、余を禁獄処分とした。迫害その後続いたが、日蓮竜泉寺住僧だった門下下総富木常忍の館に避難させるなど、事態の収拾努めている。 なお、日蓮正宗では「出世の本懐」について、熱原法難を受けて弘安2年10月12日に図顕した本門戒壇本尊大石寺所蔵)を指すとするが、日蓮宗等の他の宗派ではこの解釈認めておらず、板本自体後世の作としている(同本尊日蓮孫弟子日禅授与した本尊模刻して後世作成されたものとの説が出されている)。

※この「熱原法難」の解説は、「日蓮」の解説の一部です。
「熱原法難」を含む「日蓮」の記事については、「日蓮」の概要を参照ください。

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