熱原法難
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日蓮の身延入山後、弟子の日興を中心に富士方面で活発な弘教が展開された結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院で住僧や近隣の農民らが改宗して日蓮門下となる状況が生まれていた。その動きに対して各寺院の住職らは反発して日蓮門下となった住僧らを追放するなど対抗したため、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じた。天台宗側は北条得宗家と結びついており、幕府権力を後ろ盾として日蓮門下に圧力を加えた。 抗争が頂点に達したのは弘安2年(1279年)9月21日である。熱原竜泉寺の院主代・行智は、稲刈りに多数の農民信徒が集まっていた機会をとらえ、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えた。信徒は鎌倉に連行され、北条得宗家の家政をつかさどる内管領(ないかんれい)を兼務していた平左衛門尉頼綱の取り調べを受けた。 日蓮はこの事件を日蓮門下全体にわたる重大事件ととらえ、鎌倉の中心的信徒である四条金吾に書簡を送り、拘束されている農民信徒を励ましていくよう指示している。日蓮は農民信徒が厳しい取り調べにも屈することなく信仰を貫いている事実を知り、自身の生涯の目的(「出世の本懐」)を遂げたと述べている。なお、行智側から農民信徒を告発する訴状が出されたので、日蓮はそれに対する陳状(答弁書)の文案を作成して法廷闘争に備えた。同申状で日蓮は自身について「法主聖人」と述べている。 捕えられた20人の信徒が一人も法華経の信仰を捨てなかったため、平頼綱は尋問を打ち切り、10月15日、3名を斬首、余を禁獄処分とした。迫害はその後も続いたが、日蓮は竜泉寺の住僧だった門下を下総の富木常忍の館に避難させるなど、事態の収拾に努めている。 なお、日蓮正宗では「出世の本懐」について、熱原法難を受けて弘安2年10月12日に図顕した本門戒壇の本尊(大石寺所蔵)を指すとするが、日蓮宗等の他の宗派ではこの解釈を認めておらず、板本尊自体も後世の作としている(同本尊は日蓮が孫弟子・日禅に授与した本尊を模刻して後世に作成されたものとの説が出されている)。
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