火縄銃の登場による陣形の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 02:02 UTC 版)
「火縄銃」の記事における「火縄銃の登場による陣形の変遷」の解説
ドイツ南部諸都市において火縄銃が発達した理由は、小規模な自治都市にとって安価で城の防御には小型の火縄銃が適していたからである。また初期においては火縄銃の点火には時間がかかり危険性も高く野戦には不向きであった。最初に大々的に使用したのはハンガリー王マティアス・コルヴィヌスである。イタリア戦争においてスペインは、長槍(パイク)の密集方陣の進撃に際し、四周に随伴した銃兵が相手方の方陣と至近距離まで接近し、接触寸前になった時点で発砲して第一次打撃を期待する運用法を定めた。これはテルシオと呼ばれた。この戦術は銃剣の発明以前のものであり、発砲を終えた銃兵は有効な戦力とならず、退避行動を取ったとされる。実際の戦闘はパイク兵が主体であった。射撃手の前後交替の発想が見られるものとしては、騎兵のカラコール戦術が対テルシオ戦法として用いられたことが挙げられる。これは概ね1530年代頃からである。 1440年代にはイェニチェリがハンガリーからマッチロック式を導入したともされるが、正規に用いられるようになるのは16世紀以降である。オスマン帝国では野戦隊形における集中射撃法が実用化された。 火縄銃の再装填には時間と防御上の弱点が生じた。これを解決する手段として、縦列で行進する銃兵の最前者が発砲し、発砲後直ちに最後尾に駆け戻って装填作業をしながら行進を続行するという方式が考え出された。また、マウリッツは個別の兵種がそれぞれ独自に機能を発揮するのではなく、歩騎砲の三兵が連動して機動戦術を採ることを発案した。彼はこれをアイデアにとどめず可能とした軍事家として評価されている。ただし、この縦列交替法が大きな効果を発揮した記録はなく、またこの運動方式には鈍重さが宿命的に付きまとったため、マウリッツ自身の戦死の原因をそこに求める考え方もある。 実際に前後交替射撃法が実用化されるのは燧石式に移行してからであり、燧石式の機能改善もそれに相当の貢献をしたと考えられる。また銃剣の登場もこれに大きく寄与していると考えられるが、同時にこの時代は大砲の運用が飛躍的に改良されており、銃兵の交替射撃のみが戦線の状況を変革させたと論じるのは未だ大きな検討を要するであろう。これらは概ね17世紀末から18世紀初頭の現象である。
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