湯治場への発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/18 13:52 UTC 版)
「バート・ラウターベルク・イム・ハルツ」の記事における「湯治場への発展」の解説
エルンスト H. B. リッチャー博士は、早くも1839年に鉱業とは異なる発展の道が必要であることに気づき、水治療所を創設した。1900年には人口 5,305人に対して、湯治客は 5,004人にのぼった。1866年には工期10年のクアパークの建設が始まった。40年後にこの街はヒルデスハイム管区当局により「バート」(温泉、湯治場を意味する)の称号が付与され、都市名はバート・ラウターベルク・イム・ハルツになった。ミュンヘンの衛生顧問官のヨーゼフ・マイヤー博士は1926年にクナイプ療法を導入し、その後シュロート湯治法も採用された。1926年にクナイプ協会が設立された。 工業化に伴い、19世紀半ばから様々な産業や企業が進出してきた。その一部は非常に多くの従業員を擁していた。筆の製造(アドラー、リヒターなど)、椅子および家具製造(ゲルマニア、ベーメ、ブレートホルン、ハルテンホフ)、マッチ製造(ダイク)、ボタン製造、工作機械製造(クールマン)、鉄鋼・板金加工(MIAG)、鋳造業および水車製造(ケーニヒスヒュッテ)などである。エネルギー源として確実な役割を演じたのが、オーダー川の水力であった。現在までにおよそ5つの異なる水路系が遺されている。 バート・ラウターベルクは1929年に都市権を得た。その翌年にオーダータール堰のためのダム建設が始まり、1934年に完成した。第二次世界大戦末期にバート・ラウターベルク周辺で戦闘が行われ、54軒の建物と153戸の住まいが破壊された。これは全市の 8 % にあたる。本市は最終的にアメリカ軍によって占領され、イギリス軍の管理地域に含まれた。 1945年以後、旧ドイツ東部領土から放逐された人々が流入したために人口が著しく増加した。シレジア、ポンメルン、ズデーテン、東プロイセンから数千人に及ぶ人々がこの街を新たな故郷とした。戦後空になっていたオーダータール共同倉庫(外国人労働者収容所)がこうした人々の定住に重要な役割を果たした。1949年、ERPを介して多くの新しい住民がアウエ地区に新しく建設された共同住宅に入居した。これと並行して同じくアウエ地区に多くの一戸建て住宅が建設された。こうした難民を活用した労働力のポテンシャルを背景に、1945年以後一連の大小の製造業者が定着していった。たとえば、DETA(蓄電池)、フォウクス(ログハウス)、トリンクス(断熱板)、シュナイダー(木材研磨)、ディリンスキ家具工房(キャビネットシステム)などである。 1949年にこの街は公式にクナイプ水浴場を称し、1968年に州認定のクナイプ水浴場となった。1982年にはシュロート療法の湯治場にも認定された。 2005年に古い駅の代償として、バート・ラウターベルク=バルビス駅がクアパーク内の停車場として開業した。本市は2008年に創設825周年を祝った。 2016年11月1日にオステローデ・アム・ハルツ郡とゲッティンゲン郡が合併して以後バート・ラウターベルク・イム・ハルツはゲッティンゲン郡に属している。
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