海軍大学校、東京高等師範学校、早稲田大学
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「田村哲」の記事における「海軍大学校、東京高等師範学校、早稲田大学」の解説
田村は妻と共に1906年(明治39年)6月末に帰国する。自伝の標題は『外遊九年』であるが足掛け9年であって満8年の外地滞在だった。自筆の履歴書では和田雄治の約束どおり同年の9月に海軍大学校に職を得るが、それを裏付ける記録は岡田武松による追悼文の「海軍大学校ノ嘱託」以外に見当たらないのは、海軍大学校のその後の解体事情による。なお、履歴書の記述が「海軍大学校海上気象学教授」であり、11月に就任する「東京高等師範学校教授」とは異なっている。すなわち、海軍大学校は「海上気象学」という科目を教授する嘱託講師であり、東京高等師範学校は学校そのものの「教授職」を意味する。 東京高等師範学校教授であった記録は、筑波大学に残っていた。当時、毎年5月31日付けて発行されていた『東京高等師範学校一覧』の「自明治四十年四月至明治四十一年三月」、「自明治四十一年四月至明治四十二年三月」、「自明治四十二年四月至明治四十三年三月」3冊に「教授、気象、山形、士」すなわち「教授職で気象学を担当し山形県士族」と記されていた(本書は現在、筑波大学図書館中央本館所蔵。 田村は1906年(明治39年)11月から亡くなる1909年(明治42年)8月まで東京高等師範学校教授として気象学を講じていたのは間違いない。因みに、ここでは「山形県士族」となっているが、1907年(明治40年)11月付けの履歴書は「東京府平民」であった。これは三男である田村が日本への婚姻届けにより米沢の父兄の戸籍から分籍して東京の新戸籍の戸主となったためであろう。 早稲田大学では上述の履歴書のとおり、1907年より「近世科学」の授業を受け持っているが『早稲田大学百年史』によると身分は文学科講師:p.380で講義した期間は1907年12月から1908年7月まで:p.1196となっている。所属が「文学科」なのは理工科再開前であったから。なお、この時の講義録と思われるものが早稲田大学図書館や神戸大学図書館に残されている。
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