海軍大学校、東京高等師範学校、早稲田大学とは? わかりやすく解説

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海軍大学校、東京高等師範学校、早稲田大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 01:13 UTC 版)

田村哲」の記事における「海軍大学校、東京高等師範学校、早稲田大学」の解説

田村は妻と共に1906年明治39年6月末に帰国する自伝標題は『外遊九年』であるが足掛け9年であって8年外地滞在だった。自筆履歴書では和田雄治約束どおり同年9月海軍大学校に職を得るが、それを裏付ける記録岡田武松による追悼文の「海軍大学校嘱託」以外に見当たらないのは、海軍大学校その後解体事情よる。なお、履歴書記述が「海軍大学校海上気象学教授」であり、11月就任する東京高等師範学校教授」とは異なっている。すなわち、海軍大学校は「海上気象学」という科目教授する嘱託講師であり、東京高等師範学校学校そのものの「教授職」を意味する東京高等師範学校教授であった記録は、筑波大学残っていた。当時毎年5月31日付けて発行されていた『東京高等師範学校一覧』の「自明四十四月明治四十一年三月」、「自明四十一年四月明治四十年三月」、「自明四十二年四月明治四十三年三月」3冊に「教授気象山形、士」すなわち「教授職気象学担当し山形県士族」と記されていた(本書は現在、筑波大学図書館中央本館所蔵田村1906年明治39年11月から亡くなる1909年明治42年8月まで東京高等師範学校教授として気象学講じていたのは間違いない因みに、ここでは「山形県士族となっているが、1907年明治40年11月付け履歴書は「東京府平民であった。これは三男である田村日本への婚姻届けにより米沢父兄戸籍から分籍して東京新戸籍の戸主となったためであろう早稲田大学では上述履歴書のとおり、1907年より「近世科学」の授業受け持っているが『早稲田大学百年史』によると身分文学講師:p.380で講義した期間は1907年12月から1908年7月まで:p.1196となっている。所属が「文学科」なのは理工再開であったから。なお、この時の講義録思われるものが早稲田大学図書館神戸大学図書館残されている。

※この「海軍大学校、東京高等師範学校、早稲田大学」の解説は、「田村哲」の解説の一部です。
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