海軍士官となる
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宮城県宮城郡仙台出身。旧仙台藩士(上士)の長男として生まれ、宮城英学校を経て海軍兵学校(25期)に入校、次席で卒業して恩賜品を拝受。海兵25期の同期生には、松岡静雄、鳥巣玉樹、四竈孝輔らがいる。海軍大学校甲種学生5期を卒業。 山本権兵衛の副官などを務め、ワシントン軍縮会議では全権随員として加藤友三郎を補佐。人事局長在任中は軍縮条約を日本国内で反映させるべく尽力し、また海軍大臣・財部彪に鹿児島優遇人事をやめるよう進言している。
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海軍士官となる
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「小林仁 (海軍軍人)」の記事における「海軍士官となる」の解説
旧米沢藩の農家に生まれる。山下源太郎、黒井悌次郎、南雲忠一ら同郷の先輩と同様に、米沢中学より海軍兵学校に進む。米沢海軍武官会会員。 海兵38期での卒業席次は149名中4位。海兵38期で恩賜の短剣を拝受したのは首席・次席の2名のみであったため、恩賜を逃す。海兵38期は、戸塚道太郎、栗田健男、福田良三、杉山六蔵、三川軍一、五藤存知ら、太平洋戦争で司令長官・司令官を輩出したクラスである。 1916年、海軍大学校専修学生を卒業。いわゆる「航海屋」となる。敷設艦「勝力」航海長、海防艦「秋津洲」航海長、第三艦隊参謀を歴任。1923年、海軍大学校甲種学生を卒業(21期)。 横須賀鎮守府附(海軍省軍務局第1課で勤務)、河用砲艦「比良」艦長、出仕(軍令部第1班第1課で勤務)、アメリカ駐在(ジョンズ・ホプキンズ大学で学ぶ)、アメリカ大使館附武官補佐官を歴任して、1927年12月に海軍中佐に進級し、1928年4月に帰朝を命じられる。潜水母艦「長鯨」副長、出仕(海軍省人事局第1課で勤務)、海軍省人事局第1課局員、出仕(海軍省軍務局第1課で勤務)を歴任して、1931年12月に海軍大佐に進級。ジュネーブ軍縮会議随員、アメリカ大使館附武官、海軍軍令部第3部第5課長、戦艦「山城」艦長を歴任。
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