洪景来の乱
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詳細は「ko:홍경래의 난」を参照 1811年、洪景来は朝鮮政府に対抗する農民軍を指揮して反乱を起こし、堅固に防御されていた定州城をはじめとして西北地方の広範囲を支配した。これを洪景来の乱、あるいは、平安道農民戦争という。 最盛期には、清川江の北側をほとんど支配していた。 1812年5月29日(太陰暦:4月19日)、官軍に定州城を陥落させた際に、官軍の銃に撃たれ、戦死した。また、腹心であった禹君則(朝鮮語版)(ウ・グンチク、1776年 - 1812年)と洪総角(朝鮮語版)(ホン・チョンガク、1785年 - 1812年)は、官軍に捕縛され、平安道定州郡(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道定州市)で誅殺された。
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洪景来の乱
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「李氏朝鮮後期の農民反乱」の記事における「洪景来の乱」の解説
散発的に噴出した民衆の不満は1810年代以後に大規模反乱の形態に発展した。その反乱の松明をまず持って出たのは平安道地方だった。ここは鉱山が多く、義州商人・平壌商人など対外貿易を通じて大商人に成長した者が少なくなかった。彼らの中には財力を基に郷任層に上がった者も少なくなかった。経済的に見ると他の地方に比べて先に進む所だったし、両班勢力も微弱だった。しかしそういう経済的先進性が、むしろ中央政府の収奪の対象になった。平壌監司は金儲けがよくできる最も羨ましい官位と思われて「平壌監司も私が嫌いならそれまで」という流行語ができた。西北人のもっと大きな不満は、科挙に合格しても要職を与えない地方差別だった。これは文禄・慶長の役以後に長い間累積した不満だった。檀君・箕子朝鮮の文化伝統を継承したと自負する西北人に精神的な傷を与えた。 1811年、洪景来・禹君則・金士用・李禧著・金昌始などが主動になったいわゆる「洪景来の乱」が、西北地方の大商人・郷任層・武士・流浪農民など各階層が連合して、地方差別打破を合言葉に掲げて起きた。10年間の長年の準備の末に起きただけに、その威勢もすごかった。初め嘉山郡多福洞で1千余名の兵力で軍事を起こした洪景来の勢力は、平安道民の幅広い呼応を得て、あっという間に清川江以北の9邑を占領する戦果をあげた。しかし博川の松林戦闘で官軍に敗れ、定州城に入って対抗したが、軍事を起こしてから4カ月に城が陥落してしまった。平安道民衆蜂起が失敗した原因は、地方差別打破という名分が全国的に訴える力を持てなかったことにあった。しかし西北地方で成長した経済的力量と住民たちの覚醒は、後日また、韓末の救国啓蒙運動に発揮されて多くの愛国志士たちを排出するようになった。
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