沖縄旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 19:56 UTC 版)
民芸館の開館から数年後、木内は製作に行き詰まりを感じたことから、1976年(昭和51年)、沖縄に旅立った。沖縄には琉球絣、芭蕉布、花織、八重山上布、竹富ミンサーなど、沖縄独自の多くの織物があり、どれも他の模倣ではなく、強烈なプライドで織られていることから、沖縄へ行けば何か掴めるかもしれないとの思いであった。沖縄で得るものがなければ、本当にやめる覚悟であった。 琉球大名誉教授の安次富長昭の案内により、木内は様々な織の現場を見学した。読谷村で精巧に織り上げられる花織、沖縄本島北部で織られる芭蕉布の技術など、木内にとっては驚くべきものばかりであった。特に人間国宝の平良敏子の神業ともいえる作業には、驚きを通り越して呆然とするほどであった。木内は何かを掴もうと沖縄を訪れたはずであったが、逆に自分の十数年間の仕事の未熟さ、粗雑さを嫌というほど感じ、心中では織の仕事をやめようとすら考え始めた。 その木内の考えを見透かしたか、安次富は旅行最終日に、木内を沖縄の漆器工房へ案内した。工房の漆器職人は「本州の漆器に近づこうと努力してきましたが、まだまだです」と語った。木内はその言葉に、自分のことを言われたような思いであった。何歳になればそんな言葉を言えるのかと、年齢を訪ねたところ、60歳程度かと思いや、80歳とのことであった。木内は、「物を作る人間には年齢は関係ない」と激しい感動を覚え、自分が50歳代にもかかわらず未熟さを棚に上げ、仕事をやめたいと音を上げていたことを思い知らされた。木内は「まだまだです」の言葉に救われた思いであり、「一からやり直そう」と誓った。
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沖縄旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 05:41 UTC 版)
熊本大学学長として職務に追われる生活から離れ医界を離れることを念願し、還暦を機に退職し彼の好んだ人生を歩むことになる。幼年期、文学を志し、漢詩を学んだが医家 の家に生まれたので最も嫌いであった医師になった。弟子の医師に電報を打ち、カメラマンを連れて、いそいそと沖縄に旅行した。翌年偶々彼の秘蔵っ子であった次女が急死し、その悲哀を慰めるために再度旅行した。今回は妻、三男正忠、九州日日新聞の津留カメラマン、画家宮崎東里夫妻を同行、沖縄各地で写真を撮影した。彼の大学で学んだ医師が協力し、車は知事の 使う公用車を使った。写真は熊本の図書館に寄贈されたが行方不明であった。沖縄の写真研究家、野々村孝男が追求、津留など大勢の協力もあり、行方不明の写真が発見され、写真集が発行された。現在では貴重な写真で、山崎自身も写っているのも、建物の大きさなどが判っていいとされている。なお、1933年、沖縄のロゼッタストーンは沖縄県中頭郡嘉手納町の野国総管の墓付近において、発見された線刻石版であるが、山崎正董と沖縄研究者・島袋源一郎により発見されたのが最初とされている。
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