決定以後とは? わかりやすく解説

決定以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:58 UTC 版)

オーデル・ナイセ線」の記事における「決定以後」の解説

この国境線は「暫定的なもの」として定められたものであるが、ソビエト連邦ポツダム会談通じて衛星国であるポーランド人民共和国ドイツ民主共和国東ドイツ)に押し付けたものであった。従ってポーランドおよび東ドイツには拒否という選択肢はあり得ず東ドイツ成立後1950年7月6日ポーランド人民共和国ドイツ民主共和国との間でズゴジェレツ条約締結され、この2カ国間では受け入れられることになったアメリカ合衆国国務長官ジェームズ・F・バーンズ1946年9月6日シュトゥットガルト行った演説ドイツ政策の見直し』では、「合衆国は、これらの国境線ポーランド有利な形で見直すことを支持する」としつつも、「ポーランド割譲される地域範囲は、最終解決得られた際に決定されねばならない」と、オーデル・ナイセ線最終解決ではない含みを持つ見解述べたため、西ドイツアメリカ対す支持高め一方でアメリカポーランドとの関係悪化招いた東ドイツがこのライン認めた一方で、「ドイツ連邦共和国西ドイツ)がこのラインを「ドイツ」とポーランド国境として受け入れるか?」という問題残っていた。1950年代から1960年代西ドイツ共産主義者支配するドイツ民主共和国承認せず、これと国交のある国とは外交関係結ばないという政策ハルシュタイン原則)を採っていた。このため当初交渉にすらならなかった。ハルシュタイン原則1969年放棄され、翌1970年12月7日締結されワルシャワ条約ワルシャワ条約機構とは無関係)によって、西ドイツポーランド国交結ばれると、この条約の中で「オーデル・ナイセ線事実上の独波国境である」ことが確認された。野党のCDU/CSUはこの条約の内容国境線共産主義ポーランド承認)を批判して全国的な議論となったが、紆余曲折の末にドイツ連邦議会1972年5月17日にこの条約批准した。 さらに1972年12月締結され東西ドイツ相互主権確認し合った東西ドイツ基本条約中でも改めて「ドイツ」とポーランド国境オーデル・ナイセ線であることが確認されて、この国境確立された。

※この「決定以後」の解説は、「オーデル・ナイセ線」の解説の一部です。
「決定以後」を含む「オーデル・ナイセ線」の記事については、「オーデル・ナイセ線」の概要を参照ください。

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