歴史に登場する吉野山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 04:16 UTC 版)
672年、大海人皇子(のちの天武天皇)は、当時の大津の都を離れて出家して吉野山に隠棲したが、兄の天智天皇の死の知らせを受けて美濃へ脱出し兵を上げ、天智天皇の子の大友皇子を倒して政権を握った。→壬申の乱 このとき大海人皇子が吉野について詠んだ歌。「よきひとのよしとよくみて、よしといひし、よしのよくみよ、よきひとよくみつ」(『万葉集』)は有名。 1185年(文治元年)冬、源頼朝の討伐を受け、義経・弁慶らは吉野山に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前と別れ、東国へ脱出したと言われている。吉野山内には、いくつかの旧跡が残る。 1332年(元弘2年)、鎌倉幕府討幕運動である元弘の変の際、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時、吉野山(吉野城)を拠点として活動した。しかし、翌1333年(元弘3年)には幕府方、二階堂貞藤率いる軍勢に攻め入られ陥落。この時、村上義光が大塔宮の身代わりとなって蔵王堂で自害し、宮は高野山方面へと逃れたとされる。 1336年(建武3年)、後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ、吉野山に別の朝廷(南朝または吉野朝とも呼ばれる)を置いた。1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇は吉野で崩御し、後村上天皇が即位する。しかし1348年(正平3年/貞和2年)には楠木正行らが四條畷の戦いにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野にも攻め入られ南朝は賀名生へ移った。このあと長慶天皇・後亀山天皇の南朝側天皇が続いた。 のちに東花坊(蕉門十哲の一人、各務支考)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠んだ。 1594年(文禄3年)、太閤秀吉が吉野山で花見を行った。この時の一行は5千名ほどであったという。太閤が花見を行った場所として太閤の花見塚が残っている。
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